[検索画面に戻る] キーワード 投稿者:ELRANTY81件見つかりました。

5805件目   Re:そうですね・・・   投稿者:ELRANTY   2001年9月06日 午後12時13分

>我々の力がまだ及ばないのであのようなレベルで妥協していただいているのです。

>私たち仏弟子に力がないばかりに、かような建物にお住まい頂かなければならないということについては、本当に情けなさと申し訳なさを覚えます。
>それでも、お住まいになって頂けているのですから、それだけでも慈悲深さを感じます。

あきれて物も言えません。
いったいあなたたちはなにを勉強しているのでしょうか。
そしてあなたたちはなにを求めて幸福の科学に入ったのでしょうか。

悟った人があなたたちのそのような心を嬉しいと思うとでもお思いなのか。
悟った人が住まいや衣服・食事などに執われの心を持つとでもお思いなのか。
真に悟った人は、そのようなものを必要としないのです。
悟ったひとの発言とはこういうものです。

「お金を払ってあなた方が買っては供える花輪やフルーツ、
 そんなものはわたしには必要ない。
 それらはもともと、あなた方のものではないのだ。
 そうではなくて、あなた方が本当に所有しているもの、
 徳と悔い改めの涙で浄められたもの、
 あなたの行為という果実をささげなさい。
 それこそが、わたしの好む崇拝であり、
 わたしが評価する献身である」
(サイババ:『理性のゆらぎ』P173)

この「行為をささげる」とはもちろん、
サイババに対してなにかするということではありません。
イエスがかつて、

「これらの最も小さき者に対しておこなったことは、わたしにおこなったことである」

と語ったように、神の顕れである身近な知人たち ノ対する利他行為こそが、
サイババひいては神に対する献身になるのだ、という意味です。
(これは The_Laws_Of_the_Sun さんのメッセージ5795に対する返信です)


5806件目   Re:そうですね・・・   投稿者:ELRANTY   2001年9月06日 午後12時16分

わたしは大川さんを地球最高神だなどとは夢にも思っていませんが、
もし彼がそうだとすれば、当然同じ境地に至るはずです。
イエスや仏陀は、崇拝など求めたでしょうか。
彼らはただひたすら人類を導こうとして出てきたのです。
にもかかわらず時代が下って、弟子たち・信者たちは彼らを偶像化し、
おがむようになった。その現状を憂いて、
「師を崇拝するのではなく、あなたがた自身を、あなたがたの内にいる神を崇拝せよ」
そう言いに来たのではなかったのですか。谷口雅春・高橋信次と続いた、
教えの流れを見れば、そんなことは自明のことです。
もし大川さんが同じ流れを汲んだ、地球最高神だとすれば、
「なんとか存命中に、立派な住まいを献上したい」などというのは愚 フ骨頂なのです。

しかし、日蓮の霊言の「外にいる神ではなく、内なる神を求めろ」という発言にからむ 、
多くの部分が削除されていることから考えても、大川さんは「内なる神を求めてほしい」、
「師のことなど崇拝しないでほしい」という悟った境地にはいないのでしょう。
「存命中」から師を崇拝し始めている時点で、そして師がそれを喜んでいる時点で
もう幸福の科学は絶滅の路を歩んでいるのです。
そもそも、「神域が必要」だの「八正道を実践するには自前の道場が必要」
などと、環境に左右されるような教えを説くひとが、
どうして地球最高神であるわけがありましょうか。
以前に「スーパーで悪霊のいないレジを選ぶのが苦労する」
というきょう子さんの発言(だったと思う)が紹介されていましたが、
この発言は「心がすべて」という教えをいかに理解していないかの現われです。
悟った人間にはいかなる悪霊も近づくことなどできません。
悟った人間の周りは常に神域なのです。

弟子たちに対しても、時代にあった教えを説くならば、
どんな環境であっても実践可能な教えを説くのが指導者の努めで り、
「自前の道場がなければ・・・」などというのは、
そういう努めを放棄しているばかりか、いかに他の宗教団体と張り合うか
(=他の教団よりも立派な道場を作るか)ということしか頭にないことの現われです。
それを見抜けないことを不思議に思います。結局大川さんの本音とは、

「弟子の力がまだ及ばないのでこのようなレベルで妥協してあげよう」

「弟子に力がないばかりに、かような建物に住まなければならないが、
 それでも住んであげているのは、わたしの大いなる慈悲である」

という俗っぽいものに相違ありません。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5805に対する返信です)


5808件目   相対性   投稿者:ELRANTY   2001年9月06日 午後12時34分

>ただ敷地が多少広いだけですが、それでも昔の大名屋敷よりは狭いと思いますね。

仰るとおり、日光東照宮や多摩ニュータウンに比べれば「貧素」ですが、
同じように、たとえばわたしの家に比べれば、「立派」です。
このように物事はすべからく 椛ホ的であり、絶対的な基準はありません。
だからこそ、「一般的・平均的な感覚」からものをいうことになるのです。
したがって、どなたかが仰っていたように、
市民が概ね「豪邸だ」と判断すれば、それは「豪邸」なのです。
時代や形態が違う、「大名屋敷」や「城」、「バチカン」「多摩ニュータウン」
などと比べても意味がありません。
(これは gamandesune さんのメッセージ5802に対する返信です)


5809件目   称える   投稿者:ELRANTY   2001年9月06日 午後12時35分

>偉大な方を偉大と素直に称えることが
>恥ずかしいことなのでしょうか?

立派な建物を作ることでその偉大さを称えようなどという、
偉大なるひとの「本当に望んでいるもの」をまるで理解していない、
俗っぽい称え方が恥ずかしいのです。
まして、その「偉大なるひと」が立派な建物を欲しているとなれば、
救いようがありません。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5808に対する返信です)


5816件目   Re:そこに問題がありますね。   投稿者:ELRANTY   2001年9月06日 午後 2時20分

>貴方は基準がないといわれている。
>にもかかわらず
>>「一般的・平均的な感覚」からものをい>うことになるのです。
>このような曖昧な感覚を持ち出しています。

これのどこがおかしいのでしょうか。わたしの文章をよく読んでいただきたい。
「一般的・平均的な感覚」というのは本当に曖昧ですが、
わたしはそれが「絶対的」な基準である、などとは一言も言っておりません。
多数派・少数派という「数の原理」によって変動するからこそ、
その意見はどこまでいっても相対的で、未来永劫普遍の価値観ではない、ということです。
すなわち、大川さんの邸宅を多くのひとが「豪邸だ」と判断したからといって、
それが「絶対的に」正しいというわけではない、ということをわたしは言っているのです。
逆に、大川さんの邸宅を多くのひとが「質素だ」と判断したからといって、
それが「絶対的に」正しいというわけではない、ということもまた同様に真であります。
そして、そうであるからこそ、物事の善悪その他諸々(豪邸や否や)の価値観は、
まさにこの「数の原理」に頼らざるを得ない、ということなのです。
あなたがたが「一切の価値判断は相対的である」と信じ、
「判断を一切下さないこと」を修行徳目としているのでない限りは、
価値基準は、その時代・地域のひとびと(=市民)の多数派がどのように判断するか、
ということに頼ることになっていることを、認めざるを得ないでしょう。
オウムがなぜ裁かれたか、考えてみられたことがありますか。
彼らやその賛同者が社会の中で圧倒的多数派だったならば、
批判者に対するポアは逆に社会の多数の市民から賞賛されたはずだったのです。
彼らが裁かれたのは、単に彼らが少数派だったからというだけのことに過ぎません。
あなたがたがフライデー事件のような非常識な抗議行動に関してふんぞり返っていられるのは、
この世では賛同者が少数派であっても、
あの世ではあの行為は正しかったと考える人が多数派であることを信じていて、
なおかつ、この世でもいずれは多数派になってほしいと願っているからです。
なにを叫ぼうが、どんなに己が正しいと信じることを提唱しようが、
多数派の賛同を得られなくてはこの世では(いや、あの世でも)意味がありません。
それを知っているからこそ、あなたたちは必死に数を増やそうとしているのでしょう。
そしてだからこそ、わたしは「世間がどう判断するか」ということを基準に、
「このままだったら、広まりませんよ」と在会当時から批判をしてきたのです。
そしてその読みどおり、20世紀中に日本人全員を会員にするどころか、
わずか数万の小規模団体に留まっているのではありませんか。
(これは gamandesune さんのメッセージ5812に対する返信です)


5817件目   Re:それは心の問題です   投稿者:ELRANTY   2001年9月06日 午後 2時22分

>勘違いされていますね。
>大きいから立派とか言う問題ではありませんよ。

わたしがどこで「大きいから立派」という表現を使ったか教えてください。
大きさの話をしているのはあなたのほうです。

>心の表現としてあり方の一部を話しているですからね。

といいながら、
立派さを表現するのにすべて物質に頼っているところが、あなたなのです。

>また豪邸などといわれますが、私からすればぜんぜん豪邸に見えません。
>アルミサッシなどを使った建物が豪邸といえるでしょうか?
>どの建物にも使える汎用品です。
>また安全な環境であれば上質な木材を使用した建物にお住まいいただけるのですが
>、コンクリート作りです。
>本当の豪邸にするならコンクリートなどの建設では申し訳ないと思います。
(これは gamandesune さんのメッセージ5813に対する返信です)


5822件目   心境の変化   投稿者:ELRANTY   2001年9月07日 午前12時01分

そのような発言をして戻ってくるのは恥ずかしいものですが、
同一人物がハンドルをかえて別人物を装う現役会員よりもマシと思って、
恥をしのんで、同一ハンドルでふたたび出てきました。
とはいえ、以前のように連続的に投稿するつもりはありません。

それにしても、
あなたは昔から本当にそういうものを Tしてくるのが大好きですね。
データベース化でもしているのかしら。
(これは The_Laws_Of_the_Sun さんのメッセージ5819に対する返信です)


5842件目   Re:非常に残念に思っております。   投稿者:ELRANTY   2001年9月09日 午前 3時34分

>でしたならば、再登場された理由を述べてはいかがでしょうか?
>旧トピでも、何度もトピックとの縁切り宣言をして、何度も戻って来た退会者と名乗っていた人が居りましたが、再登場の理由は言っていなかった様に記憶しています。
>幸福の科学の退会者は、みな同じ様に、自分の発言に責任を持たないのでしょうか?

再登場の理由ですか。難しいですね。
単に「また書き込みたくなったから」としか言いようがないのですが。
ところで、あなたがこういうところにこだわるのは、わたしとしてはとても興味深いです。
あなたは、わたしの再登場をけむたがっているようにわたしの目には映ります。
というのも、あなたが、
「発言内容はともかくとしても」というあなたの発言に見られるように、
わたしの意見の過ちに気付いているのであるならば、
わたしの再登場はむしろ、わたしの過ちを直接対話によって指摘し、
相手を回心させることができるかもしれないチャンスを得た、
ということを意味するのだから、喜ばしいことであるはずなのにも関わらず、
再登場をむしろ責め、自分の発言に責任を持って、
二度と出てこないよう勧告しているように見えるからです。
わたしがもしあなたの立場であれば、再登場の理由などいちいち問わないでしょう。
理由など問うて、相手が「ああ、そうか。縁を切ったのだった」と去ってしまっては、
それ(救いのきっかけを与えるということ)がかなわなくなるからです。
わたしだったら、「ああ、去ってしまって残念だったのですよ。よく来てくれました」
ぐらいの感じで迎えるしょう。ですから、わたしはあなたの今回の

>発言内容はともかくとしても、トピックの去り方は、非常に男らしい潔さを感じ、好感を持っていた部分でもありましたので、今回のご登場は、非常に残念に思っております。

という発言はまったく不思議でしかたがありません。
去られるよりも現れてくれたほうが救いのきっかけを与えられるというのに、
どうしてあなたはわたしの登場を残念に思うのでしょうか。
縁を切ってしまったことのほうが、会員にとってはよほど残念であると言えるのに。
わたしが今回楽な気持ちでノコノコと再登場できたのは、
現役会員側からみれば、再登場は喜ばしいことだろうという想像にもよります。
(これは The_Laws_Of_the_Sun さんのメッセージ5833に対する返信です)


5843件目   ↓の続き   投稿者:ELRANTY   2001年9月09日 午前 3時35分

しかし想像するに、自分が相手の間違いを指摘できる余裕があるときはそうでしょうが、
到底相手に歯が立たず、それこそグウの音もでない感じがするときはけむたいでしょう。
あなたがわたしをけむたがるのは、まさにこの理由によるものと想像します。
わたし(だけではなく、あなたがいちいち理由をつけては具体的対話を避けてきた、
批判者の一部)に、あなたはそういう印象(歯が立たない)を抱いているのでしょう。
だから、「発言内容はともかくとしても」というような漠然とした反論は出てくるものの、
そのひとたちに対する具体的な反論はまったくできないのです。
あなたが相手を選んで対話をしたりしなかったりする様は、
特徴的で面白いなと思います。
(これらのことは、過去ログのどこかで退会者のどなたかが指摘されていましたね。
援用させていただきました。記憶違いでしたら申し訳ありませんが)
きっとあなたはそういう理由でわたしが再登場したことに拘るのでしょう。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5842に対する返信です)


5844件目   いまの心境   投稿者:ELRANTY   2001年9月09日 午前 3時37分

さて、自分のことを振り返りますけれども…。
自分の発言に責任を持つのは大切だと思います。
しかし、前言を撤回するということは、
場合によっては大切な決断であることは、あなたもお認めになるでしょう。
前言を撤回するのは男らしくない、と思ってその言葉にこだわり、
いま欲することをできないのであれば、それは愚かと言わざるを得な 「でしょう。
では、わたしのなかにどういう心境の変化があったのか。
実は心境の変化はほとんどありません。今回も悩んだ挙句に投稿したものの、
どうでもよかったかな、黙っておけばよかったかな、という気持ちもすでにあります。
読んでいれば、あなたがたには突っ込みどころなどいくらでも出てくるのですけれども、
それを発見して投稿したいと思うのは、決まって暇で家でネットをやっているときです。
日常生活は十分に充実していて、幸福の科学の「こ」の字も思い出しません。
たとえば、誰か現役会員が、わたしがかつて幸福の科学にいたことを聞きつけて、
「どうして辞めてしまわれたんですか」とうちに訪ねて来られても、
その理由をすぐ見つけるのは、とてつもなく困難な作業で、面倒です。
突っ込みどころ満載なのですが、遠い過去になりすぎていて思い出すのが面倒だし、
なによりもう無関心になってしまっていますから、どういう部分に自分が批判的だったか、
ということを自分でゼロから思い出すのは、とても難しいのです。
なにかそちらがわから意見を投げかけられたときにはじめて、
(掲示板であな スがたがなにか意見を交わしていたりするのを読むとはじめて、)
過去の記憶が蘇り、「ああ、こういうところに批判的で辞めたのだった…」
なんていう感じで思い出したりするわけです。
しかし、あくまで過去の記憶や感情に頼って批判する部分がほとんどで、
ともかく現在の境地としては「無関心」「忘れた」「どうでもいい」というところですから、
ひとたびネットを離れると、まったくどうでもよくなってしまい、
そんな背景から、「縁を切る」発言も生まれたり、あるいは連続してROMしたり、
しばらくまったくROMからも離れていたり、ということがあったのだと思っています。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5843に対する返信です)


5845件目   ↓の続き   投稿者:ELRANTY   2001年9月09日 午前 3時38分

今回もそうで、投稿したあと即「これにて失礼」宣言をしようかというくらいでしたが、
早まるとまた今回のように再登場したときにややこしいことになりますから、
今後は、宣言抜きに顕れたり消えたりの繰り返しになっていくかなと想像しています。

しかし、議論はそれが必要なものだったとしても、
双方にあまりいい感情を残さないことのほうが多いと思います。
殊にこのような宗教が関わる問題はそうでしょう。
まあ、議論をさけて「まあまあ穏便に」などといって和を尊ぶのが日本人の特性で、
それが原因で日本はダメになっていったという部分もあると思いますから、
議論が互いに感情にしこりを残すからといって避けていてはいけませんけれども、
今後はあまりあなたがたとの議論ではなく、(もちろん議論を避けませんが)
あなたがたへの反論をROM者に向けて発信していく方向でやれたらなと思います。
決意も弱いので、すぐに静かになると思いますが。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5844に対する返信です)


5846件目   批判の原因?   投稿者:ELRANTY   2001年9月09日 午前 7時43分

>それはやはり、当人が魂の奥底で、幸福の科学がホンモノであり、救われる宗教であることがわかっているからではないかと思います。

この噴飯ものの見解については、 
いつか突っ込んでおかねばと思っていましたので、 
よい機会です。 
 
なぜ退会者は幸福の科学を批判するのか、
ということに関するThe Laws Of The Sunさんのこの見解は、
マニュアルでもあるのだろうか、というくらいにあちこちで聞かれます。
わたしは今回再登場するにあたって、
まちがいなくあなたがこの見解を提出してくるだろうと想像し、

>なお、「魂の奥底では幸福の科学が正しいと知っているのですね」
>という噴飯ものの意見が間違いなく提出されるだろうから言っておきますが、

という文句ではじまる文章を作成し、再登場と同時に出そうと思っていました。
「先制攻撃」は嫌味かなと思って掲載はやめておきましたが、やはり出てきましたね。
若干訂正と引用を加えて、掲載します。

>もしも幸福の科学が、やがて消え行く団体であるならば、必至になって批判する必要はないですよね?

意見を述べるときは常に立場を置き換えて考えてみろ、ということは、
すでに過去ログで何度もいろんなかたから批判されていましたが・・・・・。
『創価学会亡国論』『創価学会ドラキュラ論』『創価学会負け犬論』と、
立て続けに創価学会批判本を出版したあなたがたのほうはどうなるのか、
ということです(よほどの強い圧力がかかったのでしょうか、
これらはどうやらいまは売られていないようですが)。
創価学会は、幸福の科学の教義上、天上界の支援など得ているわけがなく、
やがて消え行く団体であるにもかかわらず、必死になって批判していました。
他にもオウムの批判に多くの時間を費やすジャーナリストもいるし、
例をあげれば本当にキリがありません。
必死になって批判をしているという事実から、
「魂ではその団体を正しいと知っているからだ」という結論・推論は、
とてもじゃないですが導きえません。
こんなことは少し考えればすぐにわかることだというのに、
どうしてこういう意見がいつまでもまかりとおっているのか、
むしろそちらのほうを分析したくなります。
(これは The_Laws_Of_the_Sun さんのメッセージ5649に対する返信です)


5847件目    K福の科学は厳しいのか   投稿者:ELRANTY   2001年9月09日 午前 7時46分

>この厳しさを知っていた退会者であるほど、そこから逃げた自分を正当化するために、
>執拗な誹謗中傷を繰り返しているのではないかと思います。
>まだまだ伸び行く団体であることが本人にもわかっているし、伸びられると、自分の過ちを認めざろう得なくなるから、何とかして評判を落とそうとしている・・・

この意見には多くのROMしている退会者がおなかをかかえて笑うでしょう。
そのぐらいこの意見は退会者の心境とかけ離れています。
この摩訶不思議な見解がどういう根拠から来ているかというと、
『悟りの極致とは何か』における大川さんの言葉なのですね。

これは大きな、とても大きな理想だったのですね。大川さんの。
彼はそのぐらい厳しい環境をつくりあげ、偉大なる常識人を輩出する団体にしたかった。
この言葉に感動し、他の宗教団体とは違うのだと信じたひとも多いことでしょう。
わたしもそうでした。ところが、幸福の科学はそのような団体にはならなかった。
当然です。自己変革をしないひとが会員でいづらくなるようなシステムは、
幸福の科学にはまったく用意されていないからです。
その理由は、まったく異なる2つの観点から語ることができます。


ひとつは、幸福の科学に用意されている自己変革の道具は、
書籍を記憶しさえすればできる簡単な試験だけだということです。
不幸なことに幸福の科学はトップがトップなだけに、優秀な人材が育たず、
試験から心を読み取る講師(トップも含めて)などもおらず、講師登用試験すら、
(裁判でその著書の事実性を証明した関谷さんの『虚業教団』にあるように)
書籍を記憶し、そこにある言葉をちりばめた無味乾燥な論文を書けば、
簡単に高い点を取れる、というものでした。
このようにして判断されるいい加減な人事にも関わらず、
会員はよもや大川さんに霊的能力がないなどとは思っていないものだから、
支部長だ本部講師だ、といった肩書きはそのまま大川さんの評価をしめす道具となり、
組織は常に上意下達で、硬直的。組織として下の意見をすいあげるシステムなどなく、
それゆえ霊能力のない大川さんは、わたしが1990年からずっと批判してきた、
ノル }制をはじめとする組織の問題点(わたしはこれを批判する論文を本部に提出した)についても、
1996年になるまで気付くことがなかった。さらに気付いてなにを言うのかと思えば、
謝罪はなく、講師のせい(これは当時現役会員だったわたしの親戚から聞きました)。
上がこんな様子だから、下は当然それに見合ったレベルに堕す。
このように、「自己変革をできなければ会にいづらくなる」ような、
そんな「優れたひとたちの集団」とは程遠いのが、幸福の科学なのです。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5846に対する返信です)


5848件目   幸福の科学は厳しいのか2   投稿者:ELRANTY   2001年9月09日 午前 7時49分

幸福の科学に、「自己変革をしなければいづらくなるようなシステムはない」
と言えるもうひとつの理由は、そもそも幸福の科学の目的とは文字通り、
「多くのひとびとを幸福に導く方法を教える」ことであって、
自己変革をできないひとが会を去っていき(言ってみれば自然淘汰されること)、
自己変革できる優秀な人格 セけが残ることを目的にはしていない、ということです。
自己変革をできない弱い意志の持ち主であっても、
のんびり自分のペースでやっていけるような雰囲気をもっていなければいけないからです。
ひとにはそれぞれ悟りの階層・レベルがあり、まわりのひとのスピードにとらわれて、
「わたしはダメだ」と思ってしまうとしたら、それこそ「幸福になれない症候群」です。
そもそも、会員は自己変革のツールとしてのみ幸福の科学を利用するのではありません。
会員は幸福の科学が、
「世界を救うために天上界からエルカンターレの本体が降って創られた団体」
であると信じているのであり、その教えを広める尊き使命を感得して入会します。
したがって、自らの自己変革が進まない程度のことで退会するというのは、ありえません。
むしろ、そのような優れたひとたちの集団が自らの周囲にあればあるほど、
自分がたとえ意志が弱くダメであっても、会員は誇りを持つのです。
落ち込むどころか、ワクワクすらするでしょう。

さらに言うと、そもそも人間の性格とは、もともとがよほどヒドイのでないかぎりは、
劇的に変わるものではなく、「速度的に」急激に変わったとしても、
よほど元がヒドイのでなければ、本人以外の人間がそれを明確に認知することは困難です。
そして、極悪人が入ってくることはないのだから、「元がよほどヒドイ」はないのです。
ゆえに、ある人の変化を察知できても、よほど長期にわたって観察するのでない限りは、
それが自己変革の賜物なのか、単なる気分や偶然によるものなのかということを、
周りのひとが明確に決定・判断を下すことは絶対にできません。
そんな判断を短期間で簡単に下してしまうとしたら、それはむしろ傲慢でしょう。
まして、ほとんどの人が緩やかなカーブを描いて、あるいは浮き沈みをしながら、
のんびりと変わっていくのだから、なにをかいわんやです。
したがって、他人の自己変革の度合いが、
個々の会員に、「わたしはダメなんだ」と思わせるのは、ほとんどありえないことです。
しかも、そこまで他と自を比較して「自己変革」ということに敏感でいる人間であれば、
「わたしはダメなんだ」と思うよりは、「わたしもがんばろう」と思うのが普通です。
まして、人格とは「能力」ではないのだから、優れた知識だとか判断能力、
運動能力を持つひとたちの集団のなかにあって劣等感に苛まれるのとは異なり、
優れた人格者たちと同じ時間・場所を共有するのは、
同じく人格者たることを目指す人間にとっては、喜びでしかありません。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5847に対する返信です)


5849件目   退会者はなぜ辞めたのか   投稿者:ELRANTY   2001年9月09日 午前 7時51分

百歩譲って、そのような理由で辞めていったとします。
そのようなひとたちは退会後にどのように幸福の科学に接するのでしょうか。
かくのごとく自己変革ということに敏感で、自と他を比較して観察し、
己の未熟さを自覚し、自ら退会するくらいのひとは、その定義からして、
己に厳しいひとだということができるでしょう。
己に甘いひとであれば、そもそも自と他を比較したときに、
自らの未熟さに気付くことすらできないであろうからです。
そのように己に厳しいひとであれば、
他者に責任を転嫁するというようなことは考えがたい アとで、
根も葉もない幸福の科学の悪口を言って自己の正当化をはかる可能性はゼロに近い。
「自分に厳しく、自らの弱さを自覚して退会した」というキャラクター設定と、
「責任を転嫁して悪口をいう退会者」というキャラクター設定とのあいだには、
埋めたくても埋めきれない断絶があります。

上記のようなことから考えて、
「他人の自己変革の度合いを事細かに観察し、自分の度合いと比較して落ち込み、
ついていけなくなって辞めていき、責任転嫁の恨み心で誹謗・中傷を繰り返す」
という退会者像は、笑ってしまうくらいに現実味がありません。
まったく非現実的且つ非論理的なキャラクター設定だといえます。
>こうした観点から、幸福の科学を退会した人を見ていますと、(by The Laws Of The Sunさん)

>1)自分に甘い
>2)盲信し、自己責任を放棄して、責任を転嫁する

といった指摘は、まったく的外れだといえます。

退会者はむしろ自己変革を含めて、いろんな物事に厳しかったとわたしは想像します。
教団のことも自らの問題として捉え、新時代の宗教の姿を明確に思い描き、
旧態依然とした方法論(フライデー事件しかり、ノルマ制度しかり、ご本尊しかり、
御聖誕祭しかり、金集め制度しかり、ベストセラー作りしかり・・)に異を唱え、
時代の要請を見抜けと声高に叫び、声が届かない硬直的組織へと堕していく会に呆れ、
自分が求めたものはここにはなかった、師はすくなくともわたしの師ではなかった、
と幻滅して去っていった。それが退会者の姿であると思います。
(最近の退会者については、この限りではない)
(これは ELRANTY さんのメッセージ5848に対する返信です)


5850件目   自己責任の原則   投稿者:ELRANTY   2001年9月09日 午前 8時10分

>「甘い生き方」をして来た結果は、「反省という永き時の渕のなかに投げ入れらてきたのだ。」(「悟りの極致とは何か」)と、教えて頂いているのですけどね。
>これを「脅しだ!、マインドコントロールだ!」と騒ぐ人もいる様ですが、これらを信じるも信じないも、「自らの自由意志で選択したこと」であったことを忘れていますね。

信じたこ ニが自己責任であったとしても、
信じさせた側がマインドコントロールや脅しの手法を取っていないかどうか、
ということとは別の問題ですね。これも「他の例で考えろ」というところです。
法の華三法行に信者が騙されたのは、究極的には本人の責任ですけれども、
教団側も信者を信じさせるに相当の手を使ってきたと認定され、
法の華は賠償を命令されています。幸福の科学は「法の華に賠償義務はない。
信じた側の責任だ」というのでしょうか。
一般的な意見としても「騙されるほうが悪い」というのはあるし、わたしもそう思います。
しかし、騙された側に自己責任の認識の欠如があることは確かであったとしても、
だからといって、騙した側の心の問題について裁かなくていい、
ということにならないことは、考えればおわかりになるでしょう。
天上界で厳しく裁かれるのが騙した側か、
騙されて自分の責任だということを忘れた側かどちらかといえば、
言わずとも明らかです。

退会者が「騙しやがって。けしからん。俺の時間を返せ」とか
「お金を返せ」と本気で言っているとすれば(現に裁判に訴える愚か者もいるようですが)
そのときはじめて「おい、自分の責任だろう」と言えるのであって、
幸福の科学にマインドコントロールや脅しがあることをただ述べているうちは、
それ自体は自己責任の自覚の欠如にはなりません。自分の体験を基に語っていても、です。
少なくともわたしには幸福の科学に騙されたと思ったことはありませんし、
多くの退会者がそうなのではないでしょうか。
どうしようもない教団にひっかかってしまったものだ、とは思いますが、
自分の未熟さが生んだことだと思い、あきらめています。
もちろん、ふざけて「時間とお金を返せ」なんて家族というときはありますけれど。
幸福の科学にとって、このことは幸いだと思います。
幸福の科学で学んだおかげか知りませんが、退会者は自己責任の自覚が強く、
批判はしても、自分の責任を幸福の科学に一方的に押し付ける恥知らずが少ない。
それゆえ訴えられる数も少なくて済んでいるのではないかなと想像しています。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5849に対する返信です)


5854件目   Re:時代は進んでいます。   投稿者:ELRANTY   2001年9月10日 午前 1時22分

過去ログを読ませていただいていますけれど、
あなたはほとんどまったくと言っていいくらいに、
投稿するときに返信の引用ないのですね。
「的外れな文章を書いている」とか、「読解力がない」ということは、
過去ログを読む限り、ずっと指摘され続けてきているようですけれども、
それは、あなたが相手の主張の引用をして、それに対してコメントする、
という方式で文章を作成せず、それゆえあなたの意見が漠然としていて、
自分の言いたいことを一方的に主張するだけに終始しているからです。
今回のあなたの投稿を引用しながら、すこし具体的に言います。

>私は幸福の科学で長く勉強させていただいていますが、貴方のような経験は
>全くありません。(^^)

「貴方のような経験」というのが、わたしの投稿のどの部分に該当するのか、
おそらくわたしだけでなく、ほとんどの参加者・ROM者にわからないと思います。
こうやって返信をして対話をする意志があるのだったら、
具体的にどの部 ェに対して言っているのか、引用をするべきでしょう。
長すぎる引用なのであれば、自分で短い文章にまとめて、
「貴方が仰る、○○であるとか、□□であるとかの経験はまったくありません」
という文章にしてください。それをしないで気分や感情にまかせて書くから、
(すなわち、幸福の科学のイメージダウンを避けたいという一心で書くから)
一回の投稿の中ですら、言いたいことがバラバラになってしまうのです。
どういうことかわかりますか。つまり、あなたは護教か自己保身の一心で、
反射的に「幸福の科学にそんな事実はない」と冒頭で言ってしまうのですが、
なんとそのわずか数行あとで、

>また未熟な職員が多くいた時代もありました。

といって、「そういう経験があった」といわんばかりの、
さっきまでとはまるで正反対の意見を述べてしまうのです。
具体的に書こうとあなたがつとめれば、
「あなたの批判のこの部分については、
 わたしはこれこれこのような考えから同意できかねますが
 この部分については同様に感じたことがあります。
 ただ、いまは改善されていますよ」
というように、矛盾ない文章を作り、相手にもわかりやすく伝えることができます。
それゆえ相手がさらなる反論をしやすくもなるし、
場合によっては具体的であるため、相手が自らの間違いに気付き、
その回心を導くこともありえるのです。それを実践しないから、
あなたの意見はいつも退会者側にはまったく届かないのです。
(これは gamandesune さんのメッセージ5852に対する返信です)


5855件目   Re:時代は進んでいます。2   投稿者:ELRANTY   2001年9月10日 午前 1時23分

>物事の受け取り方は人生経験や価値観にもよるでしょう。

これは正しい意見と思いますが、意見としては漠然としすぎています。
したがって、このあとに具体的な説明が続くのだろうと思いきや、
そのあとはなんと、

>また未熟な職員が多くいた時代もありました。

という書き出しではじまる、まったく異なる段落なのです。
そのために、いったいあなたが、

>物事の受け取り方は人生経験や価値観にもよるでしょう。

という一文によってなにを言わんとしているのか、
わたしにはまるで伝わらないのです。
もし、これが面と向かっての対話だったら、まず大抵の人間が、
あなたが「物事の受け取り方は人生経験や価値観によります」
と主張したあとに、それに続く具体的な言葉を待つでしょうし、
続く言葉があなたから出てこなかった場合には、
「え?具体的にそれはどういうことですか」
というように質問をするでしょう。
もっと対話ということを意識して投稿してください。
あなたは上記の漠然とした意見で、わたしの意見のどの部分に対して、
どのような意見や反論を述べている「つもり」なのでしょうか。


あなたの投稿に「また」という言葉が乱発されているのは大きな特徴です。
御自分の過去ログを全部読み直せば、「また」という言葉のあまりの多さ、
そしてその使用方法の不適切さに自分でびっくりされることでしょう。
これは、あなたがいかに思いつくままに語っているか、という証です。
言いたいことをただ思いつくままにつぎつぎと語りたいあなたにとって、
「また」という接続語は、あなたにと チて便利このうえない「道具」なのでしょう。
その結果、あなたは自分の意見を、矛盾の検討すらせず羅列していくことになるのです。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5854に対する返信です)


5856件目   Re:時代は進んでいます。3   投稿者:ELRANTY   2001年9月10日 午前 1時25分

わかりにくいあなたの意見のなかでも、
かろうじてわかる部分があるので、それについてコメントします。

>また未熟な職員が多くいた時代もありました。
>一般社会においても新入社員で完璧な人はいないと思いますよ。

あなたはつまりこう言いたいわけですか。
「幸福の科学も宗教界では新入社員のようなものだから、
 最初から完璧な団体ということはありえないのだ」
と。あるいは職員個人について「完璧な職員などいない」
という意味のことを言いたいのでしょうか。
どちらにしても、その意見でしたらわたしは全面的に賛成します。
しかし、わたしの意見は「完璧さに欠けているから幻滅した」
ということではありま ケん。幸福の科学のひどさは、
「完璧でない」というレベルより遥かに下のものだったのです。
それは、「この教えを学んでどうしてこういうひとたちが集ってしまうのか、
どうしてこのようなひとたちが職員でいられるのか」と不思議になるくらいのものでした。
それが一部ならば仕方がない。しかし、問題点がずっと長い年月そのまま罷り通っている、
ということは、多くのひとがそのことにまるで問題意識を抱いてない証拠なのです。
前々回あたりの投稿で「多数派の意見が影響力をもつ」ということを言いましたが、
問題点がいつまでも改善されないということは、問題意識を持つ人が少数だった、
ということの証なのです。観察によってそのことに気付いたときに、
この教団はわたしの求めるようなひとたちの集いではない、とわかってしまったのです。

>過去がどうだのこだのといっても
>私は「お子様感覚」だなと思っていました。
>それよりも、これからでしょう。

そんなことを言うのであれば、さまざまな物事に関するありとあらゆる批判、
たとえばあなたがたの好きな創価学会批判でさえもが、

>それよりも、これからでしょう。

という言葉で片付けられてしまうことになります。
時間は常に流れていくものなのだから、
批判が常に「過去」の行為に対して行われるのは当然です。
たとえば幸福の科学が掲げる「反省」とは、
まさにこの「過去」の行為にスポットを当てるという修行です。
したがって「過去」のことがらについて批判しているからといって、
それが「お子様感覚だ」なんていうのは、まったく意味不明の分析です。
「過去」をすでに反省し、いまは改善されたというのにもかかわらず、
「過去」はこうだった、ああだったと批判をしているひとがいたときに、
はじめてあなたは「お子様感覚だ」と意見を述べることができます。
ところが、あなたの意見とは「いまは改善された」ということではなく、
「これから改善される」という単なる希望的観測でしかありません。
そのあなたの意見を以下に引用します。

>この時代のこの地上においてどれだけの
>実績を残せるか、これからの10年で幸福の科学の方向性が評価されるべきです。

わたしが退会してから、もう8年が経ちます。
「あと10年」などと言っているうちはなにも変わりません。
時間というのは「いま、この瞬間」しかないのですから。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5855に対する返信です)


5903件目   教義の未熟さを指摘?   投稿者:ELRANTY   2001年9月12日 午後 6時07分

>だから教義の未熟なところをしっかり指摘して

愚かなことです。
信じるしかない世界をどうやって、
「指摘」することができるというのでしょうか。

「アラーとヤハウェはね、実はエンリルという神でね、
イエスが父と呼んだのはエルカンターレでね。
あ、ちなみにエルカンターレはいま日本に生まれています。
霊界構造的にいうと、誰がここで、彼があそこで、
これこれこういう目的で、それぞれの神霊が地上に生まれて、
こうやって世界に生まれていったんだよ・・・・」

こんなことを説明すれば、
彼らは自分の神の幸福の科学的位置付けを理解し、
争いを辞めるようになるとでも思うのでしょうか。
とんでもありません。自分たちの神を侮辱されて怒り、
あなたがたが殺されるのが関の山です。

「信仰というものをわかっていない」と批判者に言いながら、
もっとも信仰というものをわかっていないのは現役会員たちです。
Nishida77さんが「キリスト教は霊界構造の説明が不足している」と言って、
イエスの位置付けなど説明したところで、クリスチャンが皆余計なお世話だと思うように、
宗教の選択は、そんなごたくではなく、もっと強烈なインスピレーションか、
あるいは自分の生まれた地域の伝統に影響を受けるものなのです。

会員たちがあちこちで認めている、これら「信じるしかない世界」は、
すでに強烈な信仰を持っているひとにとっては「どうでもいいもの」なのです。
世界を包括的に説明してもらいたいという思想的欲求を持っている人が、
幸福の科学のような、いかにもスケールの大きい教えに惹かれるだけです。

したがって、あと頼るべきは形而上学を離れた、心の教えのみということです。
ところが、大川さんの教えというのは、どこまでも平和なひと向けです。
自己啓発セミナーに神とか仏をくっつけただけ、と見る人もいるくらいです。
いかにしたら幸せになれるか、というような平和なひと向けののんびりした教えは、
神の理想(彼らが信じる神の理想)を武力を持ってでも実現しよう、
という強烈な信仰を持ったひとたちには、まるで届かないでしょう。
(これは gamandesune さんのメッセージ5901に対する返信です)


5904件目   神と善悪1   投稿者:ELRANTY   2001年9月12日 午後 6時11分

「人の命をなんだと思っているのでしょう?」という神への問いは、大変興味深いですね。
こんな例を考えてみましょう。ホオジロザメがひとを食べるという事件が起きたとします。
「ホオジロザメはひとの命をなんだと思っているのだ?」と問うひとがいるでしょうか。
おそらくは、そんな馬鹿げた問いを発するひとはいないでしょう。
ホオジロザメにとっては、人間にとっての善悪など無関係だとわかっているからです。
逆に人間がたとえば牛や豚の肉を「うまい、うまい」と言って食べているときに、
それを悪だというひとも、やはりいないでしょう。宗教上の理由を除けば(ポイント)。
牛や豚が死んで肉を捧げてくれることは、人間社会の存続に寄与しているという意味で、
「善」だからです。しかし、ひとがひとを殺せば、それは悪だと普通は言われます。
それは人間社会の秩序を壊すという理由によります。
このように、実はわたしたちが「善」だとか「悪」だとか区別しているものの大半は、
「人間同士の」社会的関係の「ルール」として、「相対的に」存在しているのです。
(これは TAO_0316 さんのメッセージ5885に対する返信です)


5905件目   神と善悪2   投稿者:ELRANTY   2001年9月12日 午後 6時12分

「神が本当にいるなら、どうしてこのような惨劇を止められなかったのか?」
という問いは、このアメリカにおけるテロ事件のようなものを、人間と同様に、
神自身もが「惨劇」として判断していることを前提にしなければなりたちません。
つまり、「惨劇だとわかっていて、なぜ止めないのだ?」ということです。
しかし、何を根拠に人間にとっての「惨劇」 ェ神にとってもそうだと言えるのでしょうか。
人間が殺しあって滅びたとしても、他の動物はそのことに無関心であるように、
人間が殺しあって滅びたとしても悲しいのは人間であって、神ではありません。
神が人間にとっての善悪と同じ基準の善悪の観念を持っていると推測するには、
そう推測するに足る状況証拠が必要です。しかし、どこにそんなものがあるでしょうか。
神は人類の惨劇について手を下したことが、一度たりともないのです。それゆえ、
神がこれらの惨劇を悲しんでおられる、というのは、人間が作り出した像に過ぎません。
もちろん、手を下したことがないからといって、神が悲しんでいないとは言えません。
たとえば幸福の科学であれば、「神は大変嘆き悲しんでおられるのだが、
人間が自分たちの力で親である自分のところ(善)に近づいてくるのを、
涙を流しながら待っているのだ・・・・」とでも説明するところでしょう。
しかし、これは果たして本当に神の姿なのでしょうか。
人間が考える「善悪」が、悉く「人間社会の」秩序維持を基準にしていることを考えると、
神が数ある生物の中から人間の基準だけを選び取り、人間と同じ善悪の基準を持って、
いちいち物事を「あれは善、これは悪」と裁いている姿は、想像しがたいものがあります。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5904に対する返信です)


5906件目   神と善悪3   投稿者:ELRANTY   2001年9月12日 午後 6時13分

そもそも、もし神が「在りて在るものすべて」であるとするならば、
神は自分以外の素材を使って、宇宙を創りだすことはできません。
神が「すべて」だとすれば、神から生まれたものはすべて神の性質を含むのであり、
正しいことだけでなく間違ったことでもあり、美しいものだけでなく醜悪なものでもあり、
聖なるものだけでなく卑俗なものでもある、といえます。正確に言い換えましょう。
「正しい」とか「間違っている」とか、「美しい」とか「醜悪」とか、
「聖なる」とか「卑俗」とかいう価値判断は、すべて人間によるものです。
したがって「神が間違っているとか卑俗だというのはちょっと・・・」というのは、
人間による判断でしかありません。神にとっては、存在するものすべては、
「ただ存在するもの」に過ぎず、正しくもなく、間違ってもおらず、
美しくもなく、醜悪でもなく、聖でもなく卑俗でもない。
人がいくら殺しあおうが、憎しみあおうが、
そこにはただ「花」が咲き誇っているようにしか見えないのです。神にとっては。
神が手を下さない理由は、人類のこのような争いの歴史を、
手をくだすべき「悲しむ出来事」として見ていないからでしょう。
善と悪とにわけ、悲しんでいるのは、いつも人間だけなのです。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5905に対する返信です)


5907件目   神と善悪4   投稿者:ELRANTY   2001年9月12日 午後 6時15分

人間が、物事を善と悪とにわけて考えるのはなぜでしょうか。
旧約聖書の楽園追放のエピソードは、これについて考えさせられます。

アダムとイブは、蛇にそそのかされて、善悪の木の実を食べます。
なぜ神は、人間が善悪を知るようになって怒ったのか。
「罪だと知っていて犯す罪よりも、罪だと知らずに犯す罪のほうが dい」
(「罪の自覚があれば良心の呵責を生むぶん反省が早い」ということ)とは、
大川さんの言葉ですが、これにしたがえば、人間が善悪を知るようになったことは、
神にとってはまことに喜ばしいことであるはずなのに、なぜ怒ったのでしょうか。
これは、神が人間のように物事をいちいち善と悪とに分割して考えるような、
自我を持ったような存在ではない(赤ん坊を見ていればわかるように、
自我のない存在は、物事を善悪にわけて考えない)ことを示唆しています。
そして、人間はもともとはその境地だった(=楽園に住んでいた)のです。
ところが、人間は善悪の木の実を食べてしまうことによって、
その内側に自我が芽生えたのです。裸を恥ずかしいと思ったのは、その証です。
自我が発生することによって、自と他をわけて考えるようになり、
そこから、物事を統一的に解釈することができなくなり、
事象を善と悪とに分割して捉え、裁くようになっていってしまい、
「すべて肯である」と言える神の境地(楽園)から落ちていってしまった(追放)、
というのがこのエピソードの示唆するところです。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5906に対する返信です)


5908件目   神と善悪5   投稿者:ELRANTY   2001年9月12日 午後 6時16分

これを考えると、イエスがなにをしに来たのか、ということも連想できます。
彼は人類に伝えに来たのです。お前たちはすでに神から赦されているのだ、と。
だからお前たちもお互いを(あるいは自分を)善だ悪だと裁きあうのはやめなさい、と。
「赤子のようでなければ天国に入ることはできない」とはこのことでしょう。

悲しいかな、イエスは、弟子の愚かな崇拝によってスーパーマンに祭りたてあげられ、
ユダヤの神を世界の神に変えるほどの抱擁力を持っていたその教えは、
「このひとによってしか救われない」という、正反対のドグマに生まれ変わり、
統治者たちの道具として使われ、裁きあうのをやめさせるどころか、
もっとも強烈な裁きを持つ教えとして、世界中のひとたちを殺していき、
世界宗教となって、いまも争いの火種を生んでしまっています。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5907に対する返信です)


5909件目   神と善悪6   投稿者:ELRANTY   2001年9月12日 午後 6時18分

「神は善悪を判断する自我をもち、神には善なる目的がある」と信じさせることは、
政治的統治者たちがひとを支配するための方法だったのでしょう。
ときには、「神がある善なる目的のために存在している」と本気で信じ、
その目的の遂行のために、人を殺すことだってありました。
神が目的をもっているとすれば、それに向かっていくのが、
子である人間たちの使命であると考えるのは当然の理であり、
「神の御心はどこにあるのか」と探り、
「これが神の望んでいることだ、神にとっての善だ」と信じ込んだ結果、
信じる事柄が対立するものたちが互いに争いをしていったのです。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5908に対する返信です)


5910件目   神と善悪7   投稿者:ELRANTY   2001年9月12日 午後 6時26分

自分の側が正しいと思い込むことの恐ろしさはこのトピで語り尽くされていますが、
滑稽なことに幸福の科学の会員たちは自分たちだけは違うと思っています。
しかし、

「信仰のロープを離したら地獄です」
「仏と反対の方向に走り出したら、恐ろしいことになります」

と説くような教えが、どうして、他の宗教と違うと言えるでしょうか。
神には「向いている方向」があると考え、その方向が神の御心のある方向だと考え、
最後に「では神の心がどこに向いているか」という判断を一指導者に委ねてしまえば、
信じるものたちが、それに抵抗するものに断固たる争いをしかけていくことは、あまりに明白です。
フライデー事件について、何度も指摘されているように、
すでに人間同士がさだめた善悪の観念(すなわち社会のルール)にしたがって、
「あなたたちがやったことはやりすぎです」と裁きを受けているにも関わらず、
反省の言葉ひとつ述べることができません。それは、
「法を犯してでも、やるべし」という指示、言い換えれば、
「人間社会における悪をなしてでも、神の善を実践すべし」
という指示にみられるように、
「人間社会の善悪を超えた、神にとっての善があるのだ」
と会員が信じたことが原因なのです。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5909に対する返信です)


5911件目   神と善悪8   投稿者:ELRANTY   2001年9月12日 午後 6時27分

神にとっての「善」など、いったい誰が窺い知ることができるでしょうか。
仮に、神にとっての「善」を判断できるひと(=代理人)がいるとして、
いったい誰がその「神の代理人」だと判断するのでしょうか。
結局すべてを判断する主体とは自分しかいません。
だから、「このひとは神の代理人だ」と誰かが判断するとき、
そのひとは「わたしは神の心がわかる」と判断してるも同じなのです。
現役会員たちが傲慢だといわれ続けてきた所以は、ここにあります。
SilverCodeさんがかつて「においがわからないひと」と表現したことは、
自分は正しい鼻を持っている、と思い込んだ傲慢さを見事に示しています。

まして、神が先に述べたように善と悪とに分割できない、全き存在だとすれば、
「神の望むこと」だとか、「仏と反対の方向」などというものはありえず、
神の代理人を自称し、「これが神の御心だ」「これに反するものは地獄だ」
と説くものは、悉くニセモノなのです。

人類が愚かしい争いに手を染めなくなるのは、
神はなにも望んでいないのだから、「なにが善でなにが悪か」は神と切り離し、
わたしたちの問題として、互いに話し合って決めればいい、と気付いたときです。
人類は遅かれ早かれ、すべてについてあれこれと判断する神の姿には飽き飽きし、
宗教はこれから時代の遺物となっていくでしょう。


2600年もの昔に、これらを見抜き、
形而上学的世界への言及を一切避け、「汝、信仰を捨てよ」と説き、
筏の喩えをもって「ドグマへの執着をやめなさい」と説いた釈尊は、
本当に偉大であったと思います。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5910に対する返信です)


5912件目   神と善悪論の具体例   投稿者:ELRANTY   2001年9月12日 午後 6時29分

>幸福の科学では、「程度が軽ければ良い」という考え方 ヘせず、それが極端に走った場合、どの世界に通じて行くものなのか?という視点で考えます。
このかたは、フライデー事件がオウムのサリン事件と違うのは「程度の違い」だけだ、
とこれまで何度言われてきたか、お忘れになっているのでしょう。
この社会の善悪の基準よりも上位の価値観(神にとっての善はなにか)を持ち出して、
社会法規を無視したのが幸福の科学のフライデー事件とオウムのサリン事件です。
しかし、彼らは信仰を捨てないうちは、過ちを認めることはないでしょう。
「あの世に帰ったら、どっちが正しかったかわかるさ」と考えるのです。
「あの世に帰ったら」という考えは、人間心では判断不能ということを意味します。
「神の御心は、地上の人間の“浅はかな”心では判断できないんだよ。
ただし、ぼくは鼻が利くからわかるんだけどね。君はかわいそうだな」
というこの思考パターンが、世界中の宗教戦争を生んできたのです。
このことに気付かないとは、恐ろしい洞察力のなさです。
(これは The_Laws_Of_the_Sun さんのメッセージ5895に対する返信です)


5918件目   Re:それは違うね   投稿者:ELRANTY   2001年9月13日 午後 5時26分

>この地上では時間がかかることは当然ですしかし、説きつづけることが大切なのですね。
>説きつづけることで、神の子である彼らにも理解される日が必ずくるのですよ。

わたしとて、いつの日か神の子たる人類がひとつになり、世界は変わると思っています。
わたしが否定したのは、「教義の未熟なところを指摘する」という、あなたがたの方法論です。
したがって、

>貴方は現実というこの仮の世に起きている姿にすでに心の目を眩まされていていますね。
>今ある姿にとらわれて未来を見つめる、あるいは未来を創造するということがありませんね。

というような批判は、まったく的外れだと言えるでしょう。
この批判は、「世界はなにをやっても変わらない」というひとにのみ向けられるべきです。
わたしの主張はただ、“幸福の科学が”世界を変えるのは無理だ、ということです。

あなたがたは、創価学会が世界を変えてくれると思うでしょうか。
オウム真理教が世界を変えてくれると思うでしょうか。
世界はいつか変わるが、学会やオウムの教えが変えることはないだろう、と判断しますね。
それはあなたが「現実というこの仮の世に起きている姿に心の眼を眩まされてい」て、
「今ある姿にとらわれて未来をみつめたり、創造する」ことができていないからですか?
それとも、「現実を正しく観察した、未来に対する正しい判断ができている」からですか?

おそらく後者だとあなたは言うでしょう。そして、あなたがそう判断するように、
わたしは「幸福の科学では世界は変えられない」と言っているだけなのです。
少なくとも、「教えの未熟なところを指摘していく」というような、
新たなドグマのぶつかり合いを生むだけに終わる、「あなたのやり方」では、
いつまでたっても無理ですよ、と言っているだけなのです。わかるでしょうか。
わたしは、世界はいつか間違いなく変わるだろう、と強く信じているのです。

なぜ、方法論を否定されたくらいで、すべてを否定されたように思うのでしょうか。
「論理的」というならば、わたしの言っていることがわかっているのでしょう。
だった 轣A論理的に間違っているという自分の方法論をみなおして、
「ではどうやったら世界は変わるか」と考え直せばよいではないですか。
信じるのは自由ですが、方法論が間違っていたら強く信じていても失敗します。
(これは gamandesune さんのメッセージ5916に対する返信です)


5919件目   こんにちは。    投稿者:ELRANTY   2001年9月13日 午後 5時31分

はじめまして。

>人間であるからこそ、善悪を知ることができるのであり、
>善と悪が分からなければ、それは人間ではないということです。

これについては、必ずしもそうとは言えません。
物事を自と他、善と悪という二元に分断することこそが、
物事をただ在るがままに受け入れている神から最も遠い行為であり、
人間が神から離れている、最大の理由だというのがわたしの立場だからです。

しかし、わたしがこれまで言ってきたのは、必ずしも
「神が無相だから、人間も無相であれ」ということではありません。
わたしの主張は、人間である以上は、そして自我をもっている以上は、
「善を選び、悪を捨てる」 という行為をしていくしか方法はないかもしれないが、
その「善悪の基準」を、神という不確かなものに求めるのはやめなさい、
ということです。それが争いの原因となってきたからです。

>人間社会であっても、捏造中傷記事が善いことであるとはされないでしょう。

講談社の記事が捏造だったからこそ、 講談社は裁かれました。
しかし、捏造中傷記事がいけないからといって、
あのような非常識な抗議行動が許されることは、絶対にありえないのです。
「先に手を出したほうが悪い」というのがあなたがたのお得意の反論ですが、
この日本では「報復」などという行為は、認められていないのです。
争いごとの解決は法に頼るべし、というのが法治国家です。
幸福の科学が講談社に損害を与えたことの責任を負い、賠償を命じられているのは、
法に依らずに、「力」で争いを解決しようとしたことによります。
あなたたちはその「法治国家にあるまじき行為」を正当化してきました。
その正当化の論理こそが、わたしが前回の投稿で書き込んできた、

「人間社会のルールを破ってでも守らなければならない善(神にとっての善)がある」

という恐ろしい思想なのです。この思想によって、
オウムはサリン事件を起こしたのです。だ・か・ら、

正しさの基準を、「その」神を信じているひとにしか通用しない、
不確かなところに求めるのはやめるべきだ、

と言っているのです。

>「神(仏)の望んでいること」というものを、幸福の科学的に言うとすれば、
>「限りない進歩と調和」です。

言葉を曖昧にすれば、それだけ聞こえもよくなります。
宗教というのは、よほどひどいところでなければ、大抵いいことを言っています。
にもかかわらず、いつまでも争いが絶えないのはなぜだと思うでしょうか。
あなたが今回言った、神の望んでいる「限りない進歩と調和」が、
具体的にどういうことなのか、というところで食い違っているから、
争いがいつまでも絶えないのです。
(これは Redwood_Tree_M さんのメッセージ5914に対する返信です)


5930件目   Re:どうも解っておられないようですな   投稿者:ELRANTY   2001年9月14日 午後 4時07分

>世界宗教同士が争う理由は「霊界構造」の無知。「転生輪廻」を認めないという点
>が最大の問題であると私は信じていますよ。

「本当は霊界構造はこうなっているんですよ」と指摘したところで、
大川隆法を神仏の代理人として認めてくれなかったら、その説明を信じてはもらえません。
自分がなぜ幸福の科学の霊界構造を信じるのか、考えたほうがいいでしょう。
あなたが幸福の科学の霊界構造を信じるのは、あなたが大川さんを権威としてまず認めているからです。
大川さんをただの一日本人としてしか見ていないわたしが信じないことを見ればわかるでしょう。
つまり、あなたが先にやらなくてはいけないのは、霊界構造を信じさせる前に、大川さんを信じさせることなのです。
そしてそれが、「幸福の科学の、自己啓発に毛が生えた程度の教義レベルでは無理だ」
とわたしが言っている部分です。

忘れてはならないのは、幸福の科学の世界観は自分に都合よくできているということです。
ゼロから幸福の科学を信じるひと ヘ、自分が信じると心に決めた教祖が、
地球で一番偉い神様として位置付けられているのだから、なにも失うものはありません。
ところが、他の宗教(ただし仏教はこの限りではない)を信じているひとたちにとっては、
自分がこれまで唯一普遍と信じてきた神が、大川隆法という一日本人の指導を受けるべき、
「一霊人」に過ぎないことを受け入れなくてはいけないのです。これがどんなに困難かは、
イエスの位置付けを教えようとして、煙たがられたNishida77さんを見ればわかります。
まともなクリスチャンであれば、「イエスが大川隆法に帰依した」などという戯言は、
まず受け入れたがらないのです。
(これは gamandesune さんのメッセージ5920に対する返信です)


5931件目   知っているのか、信じているのか。   投稿者:ELRANTY   2001年9月14日 午後 4時08分

そもそも霊界構造の“無知”などと偉そうに語っていらっしゃいますけれども、
「無知」という言葉は、「自分は知っている」という自覚なしには生まれません。
しかし、あ ネたはこれら霊界構造について、「知っている」のでしょうか。
それとも、「信じている」のでしょうか。もちろん、後者でしょう。
しかし、あなたがたはしばしば、この「信じているに過ぎない」という自覚を失います。
その傲慢さが「においのわからないひと」とか、「あの世に帰ったらわかりますよ」とか、
「あなたを見ていると自ら地獄に進んでいるようで、哀れです」という発言を生みます。
「信じているに過ぎない」と思っていたら、こんな発言は生まれません。
そして、「信じているに過ぎない」という自覚がきちんとできているひとは、
幸福の科学の霊界構造を「教えなくては!」とも思いません。
「信じているにすぎない」という自覚のあるひとがとる方法論とは、
「他のひとの信じている宗教の未熟さを指摘する」というものではなく、
「他のひとの信じている宗教をあるがままに受け入れ、批判をいっさいしない」
というものになるでしょう。人間の知性の及ばない、形而上学的世界について、
あれが正しい、いやこれが正しい、と議論することの空しさは、釈尊が説いています。
大川さんは釈尊の生まれ変わりを自認しながらも、その境地には到底至らないようですが、
しかし、日蓮の霊言には、当初の天上界の計画があらわれていたのでしょうか、
「他宗批判をすれば、争いを生むだけだからやめなさい」「宗教団体にしてはならない」
と書かれています。宗教法人化し、他宗批判を重要な自らの仕事としてしまったいま、
これらの部分が都合よく削除されていることは、上まで登りつめそうだった階段を、
大川さんが落ちていってしまっていたということを如実に示しているように思われます。


>それから貴方は幸福の科学では変わらないというけど、それなら貴方はどうするのかな?何か方法はあるんですか?

上の意見を読めばわかるでしょう。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5930に対する返信です)


5932件目   なぜもっと綿密にやらないのか。   投稿者:ELRANTY   2001年9月14日 午後 4時10分

さて、それとは別に「もし自分がエルカンターレだったら、どうするか」
という観点から意見を述べてみましょう。CIAKGBDEAさん(こんにちは。)の、

>もっと何ごとも上手くこなせば仏だって苦しみを背負う必要がなくなります。

という意見は、わたしもまったく同感です。
「仏は苦しみを背負っている」という考え方はわたしとは違う、ということは、
「神と善悪」という投稿で示すことができたと思いますが、いったんここは無視します。
苦しみを背負うくらいなら、もっと綿密な計画をたてて行えばいいということになります。
そこで出てくるのが、

>人間は自由意志が与えられた生命です。

という反論です。天上界で計画をたててきても、地上ではその記憶を忘れてしまうから、
地上では人間の自由意志にしたがって、計画がずれてしまうことがある、ということです。
しかし、本当はもっと大きな問題があります。実は天上界がそもそも統一されていない、
ということです。もともとは「天上界は大調和の世界であり、そのような世界を地上にも」
というのが教義としてあったのですが、「方便の時代は終わった」の時期を境にして、
天上界の様相というのは、かなり異なる説明のされかたをしてきました。
Rikimaru7さんが「神と ゥ霊界とか抜かせば、地上の人間たちとやっていることが、
ほとんど変わらない。がっかり」という感想を述べていましたが、
実際、新しい教義は、天上界がいかに人間くさい世界であるかを示してくれています。
あの世で勢力争いをやっていて、地上がユートピアになどなるわけがありません。
地上がなんとか変わっても、あの世が変わらなかったら、元の木阿弥です。
もちろん「だから先生は、高橋信次たちに謹慎処分を命ずる手段に打ってでたのだ」
と説明することができるのかもしれません。

ところが、このような強烈なレベルでの自由意志への介入が許されるのであれば、
「自由意志」云々という説明のほうが崩れ去ります。こんなことが許されるなら、
そのほかの介入だって許されるはずではないか、ということになります。
その自由意志への介入によって、エルカンターレ自身のやりたいようにやれば、
簡単に目的が達成できるから、「苦しみを背負う」こともありません。
結局、「なぜもっと綿密な計画をたてないのか」という問いを突きつけられます。
(これは CIAKGBDEA さんのメッセージ5922に対する返信です)


5933件目   この世は本当に仮の世界なのか   投稿者:ELRANTY   2001年9月14日 午後 4時12分

たとえば、わたしがエルカンターレだったら、
まず法の力によって天上界の諸霊を感化し、天上界を統一します。
場合によっては、“言うことをきかない”神霊の謹慎処分も辞さないでしょう。
自由意志への強烈な介入である、この“暴挙”も許されているようですから。
そして、天上界を統一したあとは、生まれ変わりのシステムに介入します。
地上の人間の価値観や考え方は、その地域や周りの人間環境に強く影響されます。
地上で争いが絶えない理由は、その地域にその“後継ぎ”が生まれるからです。
したがって、一切の地上界への生まれ変わりを禁止し、地上の肉体を一掃する。
これによって、かつていろんな神霊が説いてきた、まったく異なる教えも一掃できる。
もちろん、地獄界のエネルギー源(地上の人間の悪想念)も失われ、地獄界も消失する。
そのあと、エルカンターレをはじめ、高級霊たちを地上に同時期に生まれさせ、
早 モ地上にはユートピアが誕生----------これで万事OKです。
このようなシンプルな方法を採用しないのはなぜでしょうか。
「自由意志の尊重」という反論は、すでに無理になっています。

しかし、ここで、もっとおかしなことに気付くでしょう。「あれ?」と。
生まれ変わりをストップさせることで地上の肉体を一掃し、地獄界も解消できれば、
なにもふたたび地上界に生まれることなんてしなくてもいいのではないか、と。
もともと地上は「仮の世界」といわれています。この仮の世界のことに、
いったいなにをそこまで(→霊人を謹慎処分にしたり、封じ込めてまで)
躍起になる必要があるのでしょうか。これではまるで、地上は仮の世界どころか、
わたしたちにとって、“いつかは帰るべき、本当の家”であるかのようです。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5932に対する返信です)


5934件目   神に計画ありや、なしや   投稿者:ELRANTY   2001年9月14日 午後 4時22分

別の観点からみてみます。

かつて大川きょう子さ cF、書籍が月刊誌において、
「アフリカに子供たちが多いのは、
 あの地域には電気もテレビもないからです。
 夜になると夫婦はセックスしかすることがなくなり、
 それゆえ子供がたくさん生まれてしまうのです。
 電気とテレビを通せば、あの地域の問題は解決するのです」
というようなことを言っていたことがあります。これはおかしなことです。
人間とは肉体と魂によって構成され、魂が入らなかったら肉体だけでは人間にならない。
そして親子というのは、生まれる前に天上界で約束をしてくるものだから、
地上でいくら性行為をさかんに行おうとも、約束をしていない子供は生まれません。
いまの日本にも目を向けると、国は少子化で困っているようですが、
その原因も、地上の夫婦の家族計画に、完全に依存しきっています。
日本には「エルカンターレが生まれているから」という理由で、
「我も、我も」と皆生まれたがっていたそうですが、
そのことは、いまの少子化とはまったく矛盾します。

こうすると、本当にこの現象界は仮の世界だといえるか、疑問になってきます。
「霊」というものががもし存在するとしても(その可能性は十分あります)、
それだけでは「物質」は「仮」の存在として位置付けられるわけではありません。
「本」と「仮」という分け方は、単なるひとつの解釈に過ぎません。
実際には物質には人間の可視範囲を外れた物質の表現形態があるというに過ぎず、
「すべては物質だ」という主張は可能です。「本」と「仮」というわけかたは、
見えない世界を想定して、「そちらが本来の世界だ」と信じさせることによって、
そしてわたしだけがその本来の世界のあり方を知っている、と主張することによって、
社会を、人間を支配しようとした教祖たちの考え出した方法論なのかもしれませんね。

ともかくも、『黄金の法』には、この世界が神々たちのさまざまな計画によって、
ユートピア化への道を紆余曲折を経ながら進んできたことが描かれていますが、
地上の生命の誕生が、地上の人間の行為に完全に依存しているところを見ると、
そして、ユートピア化があまりに杜撰なやり方で進んできたことを見ると、
神の計画があった、という教義のほうはどうも疑わしく思えてきます。
そして、疑わしいか ヌうかもさることながら、あの世に帰ってから、
「これは計画通りいったけど、これはできなかったね」と“答えあわせ”をする、
そんな世界観は、神の創造性という点から考えても退屈このうえない気がします。

もちろん、これは単なるわたしの疑問の提示にすぎません。
結局、なにか答えがあってそれに向かって問題を解いていくことに喜びを感じる人と、
すべては白紙で、好きに絵を描いていい、ということに喜びを感じるひとの
違いなのかもしれませんね。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5933に対する返信です)


5943件目   Re:貴方は経験していないから   投稿者:ELRANTY   2001年9月15日 午後 3時54分

>霊界が存在している事実を経験することで認識が変わります。

議論しているのは、霊界が存在するか否かではありません。
至高の神と自分が信じていた存在が、大川隆法よりも下だというのは本当だ、
ということを経験できなくては、意味がないのです。仮にそれが可能だとしても、
「誰もが経験できる」ということは、それは「宗教」ではなく、「科学」です。
「研修を受けてみよう」と受け入れるだけで霊界探検をすることができるようになった、
ということは、教義の正しさを「科学的に」証明する方法を用いるということです。
いったいいつから、幸福の科学は本人の修行レベルを無視して、「ただ信じるだけ」で、
霊界探検ができるような方法論を認めるようになったのでしょうか?
これでは、信次さんの指導によって修行の進んでいない人間が過去世を思い出していった、
GLAとなにも変わりがありません。GLA批判が空しく響くだけです。

そもそも、このような研修をしては、この世に生まれてくる意味が失われます。
幸福の科学の研修制度によって、誰もが簡単に霊界探検をできるようになったのならば、
その霊界探検研修?を受けたひとにとっては、あの世の世界が厳然としてあり、
なおかつそれが幸福の科学の言うとおりの構造になっていることは自明の理となり、
あの世で修行をすることと、なにも違いがなくなってしまいます。

ここで、ふたたび先日の疑問です。あの世とこの世が同じになってしまうことは、
望ましいことなの ナしょうか?。それとも望ましくないことなのでしょうか?。
この世を「修行の場」として位置付けるならば、望ましいとはいえません。
しかし、いったいいつから地上は「修行の場」となったのでしょうか?
もともとこの世は、あの世ときちんと通じている世界でした。
地上が「修行の場」となったのは、まったくの偶然からでした。
他の惑星から連れてきた宇宙人たちが闘争的で、地上の人間の心が暗い雲に覆われ、
霊界とつながりをなくしていってしまい、地上の人間はあの世のことを忘れました。
幸か不幸か、これによって地上はなんと「修行の場」となったのですが、
その偶然の産物をもって「修行の場として、その存在意義がある」といってみたり、
「ユートピアにしなくては」といってみたり、と統一性がまるでありません。

結局幸福の科学は、この世を「仮の世界」であるといいながらも、
修行という神に近づく方法の効果が、もっとも効果的に得られる世界として位置付け、
あの世が「修行の合間の休憩場所=仮住まい」であるような説明をしてしまっています。

このことを考えると、やはり結局幸福の科学の教えというのは、
あの世から降ろされたものではなく、この世でこの世のために生まれたものなのです。
(これは gamandesune さんのメッセージ5935に対する返信です)


5944件目   はじめまして。   投稿者:ELRANTY   2001年9月15日 午後 3時56分

>そこにロマンを感じる人は絶対に何か得る者はあると思います。

とてつもない大きなロマンをわたしは感じていました。
わたしにはわたしが思い描く理想とその実現の方法論があった。
ひとりの力では無理だから、その同じ理想を描くひとたちと行動をともにしたかった。
それが幸福の科学だとわたしは強烈に確信し、救世の大号令に身を震わせたものです。
ところが、同志たちが採用する方法論は、悉く時代の要請を見誤ったものであり、
わたしはそれをずっと批判し続けてきました。何度も書いているからわかるでしょうが、
わたしは「宗教団体にしてはならない」という日蓮の言葉に共鳴した者であり、
それゆえ宗教法人化すら批判してきました。宗教がなぜいけないかは語り尽くしています。
当初はこれ 轤ヘすべて幹部に責任があると考え、大川さんに責任はないと思っていました。
いまのあなたがたが、決して何事も大川さんのせいにしようとはしないように、です。
しかし、団体の運営にはすべて大川さんが責任を負うべきだとわたしは考えるようになり、
このような状態を放置しているということは、仏陀ではない。少なくとも、
彼はわたしの師と仰ぐべき人ではないし、同志たちはともに語るべき友ではない、
とわたしは結論を下したのです。自分の理想が具体的にあったわたしにとっては、
幸福の科学がわたしの理想から離れていったときに、用済みとなったのです。
このような人間にとっては、いかに素晴らしい研修があろうとも興味がないのです。
(これは Thoth_Hermes_Project さんのメッセージ5940に対する返信です)


5945件目   程度の差   投稿者:ELRANTY   2001年9月15日 午後 3時58分

>被害妄想ではないですか。少なくとも、国家の転覆を図ることと、
>一出版社への抗議行動が同等のものではないでしょう。

わたしは「同等」とは言っていません。「そこに通じる」と言っているのです。
「程度の違い」ということで問題を片付けることはできない、ということは
あなたのお仲間が先日書き込んでいます。彼はフライデーのことをお忘れのようなので、
わたしは反論していますが、あなたはそれを読んだ上で意見を述べているのですか?
あなたの意見は「わたしたちのやったことは、法治国家に対する冒涜ではあるが、
オウムほどひどくはない」という、消極的なものになってしまっています。
業務に支障をきたすほどの、組織的電話・ファクス攻撃を正当化する、

「人間社会のルールを破ってでも守らなければならない善(神にとっての善)がある」

という解釈以外の論理を、あなたはお持ちなのでしょうか?
少なくともわたしは、「法を破ってでも神理を守れ」という説明を受けましたよ。
(これは Redwood_Tree_M さんのメッセージ5936に対する返信です)


5946件目   神との断絶   投稿者:ELRANTY   2001年9月15日 午後 4時00分

>何か神と人間社会を断絶させ スいようですが、

では、逆に聞きますが、あなたはなぜ人間社会を神と結び付けたいのでしょうか。
神がいると仮定しなくては、なにか困ることでもおありでしょうか。
「神は親であり、親が愛であるから、人間も愛を実践すべし」という筋書きがないと、
あなたにはひとを愛することすらできない、とでもいうのでしょうか?

「マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行
生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があって
はじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は
死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないという考え方があろうと、
まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教
えるのである…。」(長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473〜478頁)
佐倉哲ホームページより引用http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html


神を求めるひとは「なんとかして世界を統一したい」という心を持っているのです。
だから神を持ち出して「神の理想はこうだ」ということを示さなくてはいけないのです。
そして、その信じる「神の理想」が違うからこそ、ひとびとは争ってきたのです。
そして、あなたはこう言います。

>それなら、諸宗教に流れる共通なるものを見出していくことが必要なのではないですか。

では、共通点とはなんだと思いますか?。 それぞれの宗教が真実だと主張している、
神の理想、神の目的、神の計画、霊界構造、そういったものを一切排除して御覧なさい。
そこに残る共通点とは、倫理・道徳です。それがあれば平和はいつか来るはずです。
ところが、宗教においてもっとも重要なのは共通点ではなく、相違点なのです。
その相違点こそが当該宗教の特徴というべきものであり、存在意義なのです。
あなたがたが幸福の科学を選ぶ理由も、「他の宗教とは違う」という一点でしょう。
それゆえあなたがたは「共通点を見出していこう」ということは建前上語りはしますが、
本当にやりたいのは相違点を強調し、他の宗教の未熟な点を指摘することなのです。
宗教改革の旗手を自認していることは、その顕れとしか説明のしようがありません。
(これは Redwood_Tree_M さんのメッセージ5936に対する返信です)


5947件目   宗教の終焉   投稿者:ELRANTY   2001年9月15日 午後 4時30分

>あなたの理論で言いますと、世俗社会で戦争が起きたとしても、
>宗教が歯止めになることは無理のようですね。

宗教は歯止めになるどころか、戦争の最大の原因となってきたのです。
共通点ではなく、相違点のほうにフォーカスすることによって戦争は起きてきました。
「神の御心はここにあるのだ」と言い争って、ひとびとは戦争を起こしてきたのです。
しかし、「神はなにも望んでいないのだ」ということをわたしたちが知ったとき、
人類は、神の目的達成のためではなく、自分たちの共存のための新しいルールづくりを、
自分たちの手によって模索するようになるでしょう。そのルールづくりの基準は、
「神がこれを望んでいる」という“自称・神の使い”が述べる不確かなものではなく、
「同胞の多数派はなにを望んでいるか」という、このうえない確かなものになるのです。

そして、いずれは人類は、
自分たちが神によって創られた、神の御心の実現に手を貸すための小さな存在ではなく、
創世以前より存在した「在りて在るもの」が、多様な形態へ自らを分裂させ、
進化・変容の歴史を辿って別れていった表現形態の現段階における一種、
すなわち神自身だということに気付くのだ、とわたしは想像しています。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5946に対する返信です)


5951件目   Re:まだ解っていないようですね。   投稿者:ELRANTY   2001年9月16日 午前 2時01分

>経験を通して「真実」であるか「錯覚」であるかを真剣に考えるか否かで道が分かれていきますね。

そこが最大の重要時でしょう。
まだ人間の脳の働きがほとんどなにもわかっていないことからして、
その体験を「真実」とするとしても、「霊界があることの証拠」だと結論付けるには、
まして、自分が体験できなかった霊界の細部に関する教義まで「真実」として結論付けるには、
そのひとにはそう早急に結論づけるための「必要性」があるのです。
その「必要」というのが「幸福になりたい」という欲求なのです。
わたしにも不思議な体験はいくらでもありますが、
わたしはそれを不思議なものとして、そのまま放置してきました。いまも、です。
あの世があろうがあるまいが、わたしの生き方にはなにも関係ないからです。
どうにかして幸せになりたい、と深層心理で願うひとだけが結論付けを急ぎ、
自分が体験できなかった教義の細部まで、事実として受け入れたがるのです。



>自分が至高の神と信じていた存在の教えからはそのような教えは説かれていないことに気が付くときが必ず参りますね。

そうでしょうね。そして、この先の分析をきちんとできる人間であれば、
「では、なぜ地球最高の神である大川隆法は、地上に生まれた各宗教に、
霊界探検をさせるというこの一点だけでも、徹底して共通させなかったのか?」
と考えるでしょう。そして、地上の宗教が一切そのようなことをしてこなかったことから、
宗教は霊界の計画と関係なく、地上の人間の創造によって生まれたものであることを知り、
幸福の科学は、諸宗教を自分の名の元に統一してしまいたい、と欲した人(大川さん)の、
各宗教の共通点を「パッチワーク」した、都合のよい作り話だと気付くのです。
(これは gamandesune さんのメッセージ5949に対する返信です)


5952件目   信仰   投稿者:ELRANTY   2001年9月16日 午前 2時02分

>貴方は人間の可能性をあまり信じていませんね。

自分に都合よく解釈しないことです。わたしは人間の可能性は信じていますが、
人間たちの多くが幸福の科学に帰依する可能性はまったく信じていないだけです。
人間たちは必ず正しいものを選び取るであろうからです。

>だ・か・ら「信仰」ということが解っていないと書いているんですね。

物事の正しい分析に信仰は一切必要ありません。信仰はむしろ邪魔になります。
あなたがみずから「信仰が大事だ」「信仰が大事だ」と語れば語るほど、
あなた自身の主張が「正しい分析に基づいた予測・計画」ではなく、
「信仰がなかったら成り立たない、希望的観測(妄想)」であることを、
あなたは示していくだけなのです。わたしは「信仰」を理解していないどころか、
あなたが持つ「信仰」の意味をもっともよく理解しているといえるでしょう。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5951に対する返信です)


5953件目   この世が中心   投稿者:ELRANTY   2001年9月16日 午前 2時04分

>心境的にはあの世的でありながらも地上世界で生きることを続けることが出来ること
>これが修行の目的の一つですね。

ある宗教においては、修行とはこの世界からの解脱であり、
地上世界で生きていくことなど、目的でもなんでもないことが大いにありえます。
「それではこの世に生きる意味がないではないか」という反論があるでしょうが、
その反論こそが、幸福の科学の思想が、「この世で幸せになりたい」
ということを欲する人たちに向けて作られたものである証です。
だから、あなたがたにとってこの世は「仮の世」であるどころか、
すべての中心だとわたしは言っているのです。

幸福の科学の教えがなんらの食事制限も課さず、
「人間の修行のために、動物たちは存在している(人間を食べる動物がいることを考えれば、
これが嘘だということはすぐにわかるのに)。だから感謝して食べればよい」といったり、
「少欲知足」の思想を片隅に追いやり、裕福な暮らし自体は悪ではないのだ、といったり、
100万円という、アフリカなどに寄付すればはるかに有意義であるはずのお金を、
ご本尊という「素晴らしいもの」を買うために貯蓄させたりすることは、
「食べたいものを好きなように食べ続けられ、いまの裕福さを失わないで済み、
そのうえで“自・分・が”いかにして幸せになれるか教えてくれる、
そんな都合のよい教えが、どこかにないかなあ」というひとたちに向けて作られたのが
幸福の科学の教えである、なによりの証であるとわたしは考えます。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5952に対する返信です)


5963件目   不満   投稿者:ELRANTY   2001年9月17日 午後12時10分

>どういう理想とどういう方法論なんでしょ。

すでに語っています。
わたしがなにに反対しているかを読めばわかるでしょう。

>これだけだと自分の考えと違ったから、もしくは自分がリーダとして重用されなかったという不平不満にしか感じられません。

その歪んだ感じ方は、幸福の科学が主張する退会者像にあなたが洗脳されている証拠です。
関谷さんに対する幹部職員の「正語など、どこ吹く風」といった月刊誌での攻撃は、
すべて「自分が評価されなかったことに対する不平不満」という観点でした。
月刊誌上で語られた、幹部職員たちの“井戸端会議(というにふさわしいレベル)”は、
『虚業教団』が、教団への誹謗中傷にならないよう気を使われているのとは正反対で、
どちらが正しき心の探究者であるかを、白日の元にさらしました。

自分の考えがなく、ただ上についていくひとには「不満」は生まれません。
わたしは自分の意見が通らなかったことは大いに「不満」ですが、
それはわたしが自分の意見をもっている証であって、
それ自体は責められるべきことでもなんでもありません。
その意見が正しいかどうかだけが、重要です。
伝道期に入る前の幸福の科学が、ジワリジワリと水面下で広がっていったかつての静かな波を失ない、
数万の教団に留まっていることは、わたしに自分の意見の正しさを確信させます。
(これは Thoth_Hermes_Project さんのメッセージ5955に対する返信です)


5964件目   仏陀像・救世主像   投稿者:ELRANTY   2001年9月17日 午後12時13分

>批判者に多いのが仏陀像、救世主像を自分勝手に作り上げているにもかかわらず、それと違うから偽者だというパターンです。

仏陀像や救世主像を自分で描けなかったら、ホンモノかニセモノかを判断できません。
「こういうひとはホンモノだと思う。こういうひとはニセモノだと思う」
という具体的なイメージなしには、宗教的指導者の選択は絶対にできないのです。
あなたはなにも基準がなくて、なにかを選択することができるのでしょうか?


>聖者を理解できているというのが私からすると慢心

もし、あるひとが聖者であることがア・プリオリにわかれば、
わたしは自分がそのひとを理解できなくても批判など 竭ホにせず、
自分のほうがそのひとを理解できるように、自らを反省していくことでしょう。
ところが、あるひとが聖者であるかどうかはア・プリオリにはわからないのだから、
上にすでに書いたように「聖者とはこういうひとのことだ。こういうひとは聖者ではない」
という基準によって、個々の“自称・聖者”を判断していくしかありません。

「仏陀像・救世主像を自ら作り上げ、それと違うからニセモノだ」という考え方を、
「批判者によくあるパターンだ」などとコメントしていることは、
人間がなにかを選択するとき基準はすべて本人にある、ということへの自覚の欠如であり、
そんなことだから、自分もかつて自らの基準で師を選択したことを忘れ去り、
「自分教はいけません」という、信者を繋ぎ止めるための教祖の言葉の矛盾に気付かず、
「なるほど」とうなづいてしまい、疑念を持った仲間にも「自分教はいけないよ」と平気で言うのです。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5963に対する返信です)


5965件目   Re:おやおやここまで   投稿者:ELRANTY   2001年9月17日 午後12時18分

>脳の働きが解っていないうなら人間には解っていないことだらけですね。

その通りです。
解っていないことを根拠もなく「これは厳然とした事実だ」と述べるのが宗教であり、
根拠ができるまでは一切の断定を避け「まだ不明だ」と謙虚に述べるのが科学です。


>貴方は慎重のようでいて実は「臆病」なのではないですかね?

「慎重」と「臆病」はなにが違のですか。そして「臆病」のなにがいけないのでしょうか。
この「臆病」さを失った人間が、世界が科学で解明されていくのをのんびり待つことなく、
「これは厳然とした真実だ」と断定し、信じているに過ぎない自らの立場を忘れ去り、
信じないひとを「無知だ」と詰り、ときに争いすらしかけていくのです。


>教義の細部までというけど教義の全ての正しさが証明されなければ信じないというのでしょか?

その通りです。ちなみに証明されたら、それは「信じる」ではなく「知る」です。
そして、正しさが証明されないものについては判断を保留するのがわたしの立場であり、
正しさが証明されていないものについて「正しい」と結論を急いだのがあなたの立場です。
なんの必要があって、判断を保留せずに「これが真実だ」と断定を急ぐのか。
その理由が「幸福になりたい。そのための世界観が必要だ」という欲求なのです。
幸せになるために、幸福の科学の世界観が必要であったからこそ、
「あの世があろうがなかろうが、関係ない」というひとに嫉妬をし、
あまつさえ「あなたはまだ本当の幸せを知らない」とお節介をやくのです。


>>あの世があろうがあるまいが、私の生き>方には何も関係ない
>という発言も非常に危険な発言ですね。
>唯物論的にも受け取れますね。

「唯物論」とは「死んだらなにもなくなる」と断定する立場です。
わたしの立場は「死んだらなにもなくなるかどうかはわからない」と、断定を保留する立場です。
あなたがたが考える「唯物論の危険性」とは、「死んだらなにもなくなる」という断定が、
「生き方に影響を及ぼす(たとえば、刹那主義に傾倒する)」ことであり、
わたしは「死んだらなにもなくなる」と聞かされようが、「あの世はあります」と聞かされようが、
「生き方に影響を及ぼす」ことは「ない」と言っているのだから、
「唯物論」でもなければ、「危険」でもありません。


>私は貴方のような人生の生き方には何の魅力も感じませんね。

あなたがそう感じるのは当然です。
教義を否定されているから、愛すらも捨てているとでも思っているのでしょう。
とんでもありません。わたしの投稿を読めば、わたしの意見とは、
宗教から形而上学的言明を一切取り払ってしまえば、そこには心の教えのみが残る。
それさえ残れば、あとはなにもいらない、というものだとわかるでしょう。
証明されていない形而上学的世界について「これが真実だ」と頑なに信じて断定し、
それを信じないひとを「無知の民」と断罪してきたことが、すべての争いの原因です。
(これは gamandesune さんのメッセージ5956に対する返信です)


5966件目   まとめ---テロ事件によせて   投稿者:ELRANTY   2001年9月17日 午後12時23分

「神はなにを望んでいるか」-----それに対する考えは各宗教でまったく異なります。
誰かが「神は世界平和を望んでいる」といっても、それはその宗教の神の描き方であって、
それが本当に神の姿なのかどうかは、絶対に誰にもわかりません。
「汝ら、互いに愛し合えと教えたではないか」と大川さんが創世の神を気取って語っても、
「そんなことは、わたしの信じる神は言っていない」といわれれば終わりです。
そして、「神は平和を望んでいる」と主張している宗教においてさえ、
その平和の実現方法が、同じく平和的手段(すなわち対話)によるべきであるとは
考えられていないことだってあるのです。
たとえばアメリカは、今回のテロ事件に対する報復を、
神の理想(平和)の実現のための手段としてまったく正当であると信じています。
ブッシュ大統領が、「これは善と悪(神と悪魔)の戦いだ。そして善は必ず勝つ」
といっていることはその証だといえます。
ジハード(聖戦)という言葉はイスラムのものですが、
キリスト教も実はその思想を持っていることを、これらのことは示しています。
幸福の科学が自らのユートピア運動を広げる努力の途上で、
捏造記事をばら撒くといった「妨害行動」をした講談社を悪魔に見立てて攻撃したことは、
スケールの違い(幸福の科学のスケールはあまりにも小さすぎる)こそあれ、
キリスト教信仰者がイスラムを「悪魔」に見立てて抹殺しようとする構図と同じです、
講談社への抗議のとき、「聖戦」という言葉を使っていたことはわたしは忘れていません。
一方で「汝ら、互いに愛し合えと教えたではないか」と悲しげに語り、
一方で「悪魔に対しては断固として闘え!!」と拳をふりあげて絶叫する。
世界の宗教の問題の縮図がここにあります。

神には目的があって、その実現のために人間は存在していると信じているうちは、
人間たちは自分の信じる宗教が教える「神の目的」がなんたるかを全世界に伝道し、
それを受け入れようとしない“邪魔者”に対しては、戦いを挑み続けることでしょう。

神が目的などまったく持っていない、躍動する生命そのものだということに気付いたとき、
人間は他人が自分と異なる考えを持っていることを許すことができるようになり、
ただ理をもって話し合い、平和な社会を築いていくことができるのだとわたしは考えます。
(これは yukisan_kokodoko さんのメッセージ1に対する返信です)


5972件目   脳の働き   投稿者:ELRANTY   2001年9月17日 午後 9時54分

「脳の働きがまだほとんどわかっていないから、判断を保留する」ということは、
人間の日常生活におけるすべての経験を疑うというところにまで進むことができます。
なにかバカにしたような風に書いていますが、これはひとつの哲学的大問題であり、
たとえばデカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、それに対するひとつの考察です。
もちろん、デカルトのこの考察に対する反論も存在しています。
「大変な発見」であるどころか、「経験している事柄は本当に確かな何かなのか」
「その主体たる自分は本当に存在しているのか」というのは、
ずっと昔からある問いなのです。

「脳の働きがまだほとんど解明されていないから、霊的経験については判断を保留する」
というわたしの意見は、ところが、そういう哲学的問いとは次元が異なります。
「脳の働きがまだほとんど解明されていないから」と断定していることからわかるように、
「脳がある」「その働きがまだほとんど解明されていない」という観察結果は事実であるということを前提にしています。
科学的事実として認識されている事柄はすべて客観的な観測にかけられたり、
第三者の前で再現することができたり、というような条件を満たしています。
その条件を満たしたものは一応は前提としてわたしは認めているのです。
わたしが霊的体験が霊的世界の存在を示しているのかどうかについて判断を保留するのは、
そこに客観性と再現性が欠けているからです。
それゆえ、それが「夢」のような、脳が作り出した幻である可能性も否定できない、
という意味で「判断を保留する」というのが、わたしの意見です。
自分の価値観を否定されているという被害妄想に捉われているから、
「判断を保留する」といえば、すぐにそれが霊的世界の否定かなにかだと思うようですが、
「判断を保留する」というのは、「幻影だ」という断定も避けるという立場です。

もし、霊的世界を信じる派と信じない派にわかれて議論する場所があるとしたら、
わたしは「信じる」派の側で主張をする可能性のほうが高いでしょう。
しかし、それはあくまで「信じる」であって「知っている」ではありません。
わたしが言っているのはこの「信じているだけですが・・」という謙虚な自覚です。
(これは gamandesune さんのメッセージ5968に対する返信です)


5973件目   一元論と二元論   投稿者:ELRANTY   2001年9月17日 午後 9時56分

>よく分からないことですが、「神と人間を分断させる」という、
>あなたの行為そのものが二元論の特徴でもありますね。

本当にまったくわかっておられないようです。
せめてご自身が信じているのが二元論だということぐらいはわかってほしいものです。
わたしは「神は遍在だから、善も悪も神の性質だ」といっているのです。一元論です。
あなたは「神は遍在だ」と言いながら、「善は神の性質だが、悪は神の性質ではない」と言って、
世界には神と神以外のものが存在することを主張しています。二元論です。
おそらくは、「神の遍在」の意味をわかっておられないのでしょう。
「神の遍在」とは「神以外のものが存在する余地はこの宇宙にはない」ということです。
「仏と反対の方向に走り出したら、地獄への道が待っている」という言葉は、
「仏はある方向(善なる方向)を向いている」ということを前提にしています。
これは「仏は遍在していない」という主張です。仏が遍在しているならば、
仏はどこを向こうが存在していて、「仏と反対の方向」というものは存在しないからです。
神に方向がある、と信じている限りは、自分や他人が思うことや行うことをいちいち、
「これは神の望むこと」「あれは神の望まないこと」といって分けて判断し、
「人間の意志対神の意志」という対立に明け暮れることになるでしょう。

神の遍在を信じられたとき、ひとはこの終わりなき対立から逃れることができ、
賢愚併せ持つ自分たちの意志がそのまま神の意志であると知り、
対話によって平和な世界を実現することができるようになるでしょう。
(これは Redwood_Tree_M さんのメッセージ5970に対する返信です)


5984件目   Re:それでは貴方は   投稿者:ELRANTY   2001年9月18日 午後12時49分

>これは貴方自ら自説を否定していることになるのですけど、

なりません。頭がこんがらがっているようですね。どうせ突っ込むならば、

「じゃあ脳の働きがわかっていないという判断は正しいのか?」

とか、

「脳というのがそもそもあるのか、お前にわかるのか?」

ぐらいまで突っ込んだほうがいいでしょう。

ところが、わたしが「脳の働きはわかっていない」と断定的に主張していることをみれば、
「脳が存在している」ということや、「その働きはまだほとんどわかっていない」という
科学的観測は正しいのだということを、わたしが前提にしていることがわかるでしょう。
それを前提にするということは、科学的事実として認識されているものは、
わたしは受け入れている、ということを示しています。わかりますか?
そして、「客観性がある」「再現性がある」ということが、科学的か否かの基準です。
霊的体験はそれが客観性や再現性がないゆえに、まだ、脳の作り出した幻影か、
それとも実在するなにかをまだ知られない人間の感覚が察知しているのかは、
予断をゆるさない状況だから、わたしは判断を保留する、と言っているのです。
それが「脳の働きはまだわかっていないから」ということの意味です。

わかりましたか?。これでわからなかったら、説明のしようがありません。
(これは gamandesune さんのメッセージ5974に対する返信です)


5985件目   具体的方法論   投稿者:ELRANTY   2001年9月18日 午後 1時31分

>具体的方法論とは例えば、宗教でなければどういう方法なのかそうしたことを具体的に書いてビジョンを示すことまで含むと思うのですが。

この場合は、反対すること自体が具体的方法論の提示になります。
くだらない宗教グッズやイベントをなくし、ノルマを課す伝道をやめる。
たった、それだけのことでよかったのです。目的を達成するためには。
「急がば回れ」この単純な真理さえ理解できなかったことが悲劇でした。

これは過去ログに書いたことがありますが、
ご本尊や三種の神器というのは、すべて90年にスタートした伝道に失敗した結果、
借金がかさみ、それを埋めるための方法論として作り出されたものです。
わたしの批判論文を読んで、うちに訪ねてきた幹部は、
わたしが「借金なんでしょ?」と聞くと「そうです」と申し訳なさそうに答えました。
だから「借金だったら、そう素直に月刊誌で発表しなさい。反省をしなさい。
あの大伝道は間違いでした、と。そのせいで借金ができてしまいました、と。
みなさん申し訳ありませんが、お金を貸してください、と。
そうすれば会員は、きっと喜んでお金を貸してくれるでしょう。
そして月刊誌で、毎月会計報告をしなさい。ガラス張りの心でもって。
心の修行がすべてだという教えを曲げて、宗教グッズなんて売り始めたら、
幸福の科学の運動は他と同じレベルに落ちて、間違いなく失敗しますよ」と言ったのです。
彼は沈黙のあと「それはできませんが」と言い、「あなたは絶対に残っていてください。
借金を返し終わったら、ご本尊やペンダントや三種の神器はなくしますから」
と言って、去っていきました。結局いまは借金はなくなったようですが
(広告をしょっちゅうやっていたり、精舎を無借金で建てるところを見る限りは)
これら“宗教グッズ”はなくなっていないようです。
借金返済のための方便でやっていたつもりが、本道になってしまったのです。

御生誕祭とかご本尊とかペンダントとか三種の神器とか
○○祈願という宗教商品をはじめた結果、集まってくるひとたちのレベルは、
「ご本尊をいただきました」「おお、素晴らしい。おめでとうございます」
「夫の浮気に悩んでいます」「浮気解消の祈願があるのよ。受けてみたら?」
「会社の業績があがらなくて」「ケリューケイオンの杖を購入したら?」
「反省が進まなくて」「特別潅頂を受けて、罪を清算すればいいですよ」
「先生にはいつかもっと立派な住まいに住んでいただきたい」「本当ですね」
というものになり、他の宗教とは違うと信じるのは内部のひとだけになりました。

こういうレベルのひとたちが集まるようになってしまったことを、
成功と思うか、失敗と思うかは、なにを幸福の科学に求めていたかで異なるでしょう。
わたしは、幸福の科学の運動がこんな“宗教ごっこ”に矮小化されてしまうことは、
大川さんが当初目指していたものではない、と信じるから、失敗だと結論します。
(これは Thoth_Hermes_Project さんのメッセージ5978に対する返信です)


5986件目   説得力   投稿者:ELRANTY   2001年9月18日 午後 1時34分

>私は組織論として筋の通らない不平不満は我慢できないだけです。
>基本的には説得できるだけの力が必要でしょう。

ところが、幸福の科学で優先されるのは、
「筋が通っているか否か」や「意見に説得力があるかどうか」ではありません。
もし、「筋が通っているか否か」「意見に説得力があるかどうか」が基準だったら、
わたしの意見は絶対に通ったでしょう。なぜなら、わたしがあるとき、
当時の最高幹部の講義のあとの質疑応答で、組織運営への批判をぶつけたとき、
汗をふきふき、しどろもどろだったからです(かわいそうになるくらいでした)。
わたしは確信しました。このひとは自分たちのやっていることが疚しいのだ、と。
その集まりが終わったあと、見知らぬ会員たちがわたしのところに、
「すごいですね。勇気ありますね」と口々に言いに来ました。
みんな、同じことを思っていても言えなかったのです。
それでもわたしの意見が通らないのは、説得力がないからではな ュ、
幸福の科学が信仰の世界だからです。このような場所では、
最後には大川さんがどちらの方法にゴーサインを出すか、ということだけが、
最重要ポイントとなるのです。それゆえ彼らは自分たちの側が理屈が弱くても、
「あなたは信仰心が足りない」といって、批判意見を堂々と退けられるのです。
すると、批判する側は最後には、こんな組織運営を容認している大川さんが、
本当に師と仰ぐべき人なのか否か、ということを選択することを迫られます。


>釈尊もイエスも当時の救世主観を破って出現しています。皆自分で判断したのですね。おわり。

当然、あなたはこの議論は「おわり」にしたいでしょう。
釈尊やイエスが当時の救世主像を破って出現したからといって、
それが大川さんの正しさを示すわけではないことに気付いていらっしゃるでしょうから。
従来の救世主像を破ったレベルで言えば、麻原さんのほうが遥かに上ですものね。
結局は「ホンモノはこういうひとだ」という自分の価値基準に依存することになるのです。


>私は言いません。以上。

これについても「以上」と切り上げざるを得ないでしょう。

あなたが「自分教はいけません」と言わない理由はなんでしょうか?
きょう子さんが「自分教はいけません」と言っていることに賛成できないのですか?

などと突っ込まれても困るでしょうから。
(これは ELRANTY さんのメッセージ5985に対する返信です)


5992件目   Re:そうじゃないね   投稿者:ELRANTY   2001年9月18日 午後 8時41分

量子力学における「不確定性原理」というのは、
「科学的観測というのがなにか意味のあることなのか?」
ということを人間につきつけているそうです。詳しく知りませんが。
この立場に立てば、外界の世界が本当に存在するのかどうかは、不明です。
しかしこれでは、あれも不確か、これも不確か、で生きていくことができないから、
なにかを前提にする、ということになります。その前提というのが、
「科学的観測というのは、これを一応信頼できるものとして受け入れる」
ということです。この土台にたって、わたしとあなたは、たとえば、
人間がこの世界に存在しているということや、他者が存在しているということ、
世界にはこういう歴史があったということや、地球がまわっているということ、
その他諸々の“科学的事実”について、受け入れているのです。

その共通の土台のなかで、ひとつ共通しないものがある。それが霊的体験です。
通常の経験が第三者の追体験や再現性を持つのに対して、霊体験はそれがありません。
脳が作り出した幻影なのか、実際の世界を見た証なのか、ということが不明なのです。
不明だから判断を保留する、というのがわたしの「脳の働きがまだわかっていないから」
という言葉の意味です。おわかりになりましたか?

もうこれで最後です。
これでわからなかったら、ママにでも聞いてください。
(これは gamandesune さんのメッセージ5987に対する返信です)


5993件目   賭け   投稿者:ELRANTY   2001年9月18日 午後 9時30分

>地上ではどちらにチリやホコリが付いているかの見分けが難しいでしょうが、天上界(あの世)に還れば一目瞭然なのだそうです。

横レス失礼します。 アのような考え方、つまり、
「天上界に帰ったらわかる」という「賭け」をしてしまうことが大問題なのです。
皆、自分が神の側にいるという「賭け」をしているのです。「この世」の人生をかけて。
「人生とは、あの世の記憶を忘れたこの世でも、答えにたどり着けるかどうかという修行ゲームだ」
という世界観は、この世の善悪の価値判断を平気で軽視します。
きっと、法を犯して講談社に電話・ファクス攻撃を組織的にしかけたことは、
たとえこの世でどのように非難されようとも、あの世に帰れば彼らに、
「あそこで止めてくれてありがとう」と感謝されると、あなたは信じているのでしょう。
そういう信仰が、この世界における善悪の判断を軽視し、争いの種となるのです。
事実かもしれませんよ。あなたの「賭け」る通り、あなたはあの世で感謝されるかもしれません。
しかし、みんなそうやって「賭け」ている限りは、争いはなくならないと知るべきです。

「神に正解なんてない」ともし信じることができたら、人間たちはどういう選択をするでしょうか。
「賭け」はする意味がなくなり、「仮の世」としてのこの世の価値ではなく、
アの唯一普遍の宇宙、この場所以外に自分が本来いるべき場所なんてないんだ、
というこの世界の本当の価値を見出し、この世界における正しさを追求することになるでしょう。
(これは The_Laws_Of_the_Sun さんのメッセージ5977に対する返信です)


6008件目   お返事   投稿者:ELRANTY   2001年9月19日 午前10時12分

>総裁先生に対して信仰が立たなかったという事実ははっきりとしています。

その通りです。信仰するに足りない、と結論付けました。


>お布施というものは本来対価性はありません。

それを対価性のあるものにしているのは、幸福の科学です。
これについては過去ログに見事な批判があったと記憶するのでそちらに譲ります。


>法具を縁として仏とつながっているのは霊的法則を知っていれば自明の理。

法具は、“人間が”作りだした、考え出したものです。
神という無形のものとつながるパイプを、心という同じく無形のものによってではなく、
有形のものによって表現すれば執着を生み、他人 フ信じる別の有形のもの(板曼荼羅やお守りなど)を軽視し、
ニセモノだとか効果が小さいというような、馬鹿げた主観的争いを生むことになるのです。
月刊誌を開けば、自分たちの法具の優位性を得々と語る宣伝文句にすぐ出会えるでしょう。


>貴方の予想は必ず覆します。

反省なくして、発展はありません。
(これは Thoth_Hermes_Project さんのメッセージ5996に対する返信です)


6010件目   お返事2   投稿者:ELRANTY   2001年9月19日 午前10時13分

>理屈だけで世の中渡れると思っている青二歳なのですね。

理の通らないことをしているひとの常套句ですね。
捨て台詞はみじめだから、おやめになったほうがいいでしょう。


>それで自分のほうが仏より正しいと思われたわけですか。

「自分は仏より正しい」ではなく、「大川さんは仏ではない」がわたしの結論です。


>仏がすべてわかるなんてどういう了見なんでしょ。

この場合、「信じる」という選択と「信じない」という選択は同価値です。
「信じる」という選択も、結局は自分の基準に従っているがゆえに、
「自分はわかっている」という意思表明にほかならないのです。お気づきですか?


>東大法学部のご出身で、商社でニューヨークに勤務というトップエリートの経歴を持つ方よりも組織論において認識力が高いということですね。

これは、ただの学歴コンプレックスですね。
東大法学部出身者たちが昨今どういう犯罪を犯しているか考えれば、
経歴からそのひとの認識力の高さを測れないことなんてあまりにも明らかなこと。
そんなことを基準に判断しているようでは、あなたの信仰も程度が知れます。



>法を裁きの道具に使っている人などもういません。認識が古すぎます。

組織の長がその「道具」を放置したままでは、古いどころか現在進行形です。
(これは Thoth_Hermes_Project さんのメッセージ5997に対する返信です)


6011件目   信仰の理由   投稿者:ELRANTY   2001年9月19日 午前10時15分

ようやくわかったようですね。
あなた フ言うとおり、わたしとあなたに共通する土台というのは、

>科学というものが正当性を持つだろうという「信仰」

なのです。これを仮に第一レベルの信仰と呼びましょう。
これを信仰する理由とは、これを信じることなしには日常生活が不可能だからです。
そしてお互いに共通している土台だから、「知る」という言葉で話をしてきたのです。
さて、その第一レベルの信仰を共通の土台にして「科学は正しい」と前提したとき、
日常経験と霊的経験というのには差があるのです。それがなにかというと、
霊的体験には、「再現性」や「客観性」という、科学として認められるべき条件が、
まだ現在の時点では満たされていない、ということです。
それを「事実」として断定しようとすることは、いわば「第二レベルの信仰」であり、
あなたがいうように、そこに科学として認められるだけの客観性と再現性が出てくれば、
皆はそれを事実として認めるのです。しかし、

>精舎研修において各人が法談をすることで
>教えから、そこに参加した人が如何に成長したか、その時間内に魂が揺さぶられるほどの霊的な体験をして、成長した ゥを確認し合うことを続けることで教えの正しさが確認されていくのです。

「成長した」という個人の「主観」に基づくものは、科学の名に到底値しません。
なぜなら科学は「客観」を求めているからです。こんなことだったら、
「水中クンバカ」をやって、呼吸を止められた時間を計ってみせることで、
自らの教義の正しさを証明しようとしたオウムのほうが、よほど科学的です。

このように客観性と再現性が、現在まだないような段階において、
なぜそれを「事実」として断定しなくてはいけないのか。
それが「信じることによって幸せになるからだ」という「必要性」に応じたものだ、
と、わたしはずっと言ってきたのです。これでおわかりになったでしょう。
(これは gamandesune さんのメッセージ5998に対する返信です)


6015件目   反論になっていません。   投稿者:ELRANTY   2001年9月19日 午後 3時05分

わたしの前回の投稿をきちんと読めば、
あなたの今回の投稿はまったく反論になっていないことがわかるでしょう。

コピーアンドペーストをして、
オフラインでゆっくりと読み直してください。

たぶん、参加者・ROM者のなかで理解できていないのは、
あなただけであると思いますよ。
(これは gamandesune さんのメッセージ6012に対する返信です)


6028件目   最後。   投稿者:ELRANTY   2001年9月20日 午後 6時05分

>また自身の経験を信じる人を科学という名で安易に批判していますな。

していません。「信じる」と言えたらそれでいいのです。
「そういう世界はある」と「断定」するのがいけない、と言っているだけです。
自分の主観・経験すらつきはなして観察すること。これが本当の客観です。


>貴方は科学者と言われる人々が経験していることを告白しても認めないでしょうね。

当然です。誰が経験しようが、客観性と再現性がなかったら、科学の名に値しません。
もしその科学者たちが、「科学者自身が経験したのだから、検証は必要ない」
と言っているとしたら、そのひとたちは科学者失格です。
「霊界が存 ンするという仮説は、まだ長い時間をかけて、検証する必要があるだろう」
と結論するのが、真の科学者の姿です。


>「信じることによって幸せになる」ということだけではありません。

「信じることによって幸せになる」のがあなただ、ということは認められたようですね。
「事実と証明されたから信じるのではなく、幸せになるから信じている」
このことさえきちんと自覚できていれば、ひとに押し付けることもなくなるでしょう。
この自覚、今後も大事にしていてください。


>「信じないことによる幸せ」というものもあるのですね。
>後者が貴方なんですね。
>貴方は自分の幸せの表現として第三者の証明が「必要」と信じているだけです。

どうして、他人の投稿をきちんとお読みにならないのでしょうか。
わたしは「霊的世界があろうがあるまいが、わたしの生き方には影響を及ぼさない」と書いているのに。
わたしの「幸せ」と関係ない事柄だからこそ、科学がどちらが正しいか証明するのをのんびり待つ、と言っているのです。
あなたがたが科学が解明するのをのんびり待たないのは、「幸せ」と関係しているからだ、と言っているのです。


>貴方の言説でいくと、貴方の認識を超える人は全て「おかしい」となるのです。

わたしが、どこでそんなことを書いたでしょうか。
そんなことだから、「批判されているという自覚から来る、被害妄想」と言われるのです。
経験したひとがいるのは事実。それゆえ、あの世がある可能性も十分ある。
しかし、脳が作り出した幻影である可能性も同様に十分ある。
科学が解明するのをのんびり待とう。たったそれだけのことです。


>貴方は御自分の脳の働きをどれだけ理解しているのですか?

前から疑問なのですが、この質問はどうしてわたしに向けられるのですか?
わたしは一貫して「人間の脳の働きはまだほとんどわかっていない」と言ってきました。
どちらかといえば、わたしがあなたに質問することでしょう。
(これは gamandesune さんのメッセージ6021に対する返信です)


6029件目   Re:全く信じていないのですね。   投稿者:ELRANTY   2001年9月20日 午後 6時24分

>しかしね、仏が承認されたものは仏の力が宿っています。

こうやって、どこの教団も自分たちのところの優位性を語って譲りません。
だから、そういうものをつくるのはやめるべきだ、と言ってきたのです。
ずっと以前にどなたか退会者のかたが書いておられましたが、
神という無形のものに通じる自由は、すでに最初から全人類に与えられているのです。
「どんな形のものに祈ろうとも、心が正しければ神はかならず聞き届けてくれる。」
こう言えたとき、それが他宗教に対してどれほどまでの包容力を有するかわかりますか?
有形のものを作って「仏が承認したから、うちのは凄い効果ですよ」などと宣伝するのは、
たとえそれが事実としても、宗教を統合する方法論としては、まったく愚の骨頂です。
こんなのは誰が考えてもすぐわかること。“東大法学部出身のエリート”ならなおのこと。
それなのに、こういう有形のものを作り出したのはなぜか。それが借金返済なのです。
効果がないとは思っていません。
ただ、効果があっても、それは「仏の承認があったから」ではなく、
わたしたちの知らない、もっと複雑な法則によってだと思っています。


>会社でもそうですがたとえ正論であっても実績なり才覚が無ければ案が採用されることはありませんね。

幸福の科学は、“ワンマン社長”がすべてを取り決める中小企業の形態です。
信仰の対象ですらあるのだから、通常の企業におけるワンマン社長の非ではありません。
実績があろうが、正論であろうが、“社長”の意見を批判すれば、即クビです。

ただ、あなたの仰ることはよくわかります。
上のわたしの意見は現在の考えで、当時は大川さんには運営の責任はない、と思っていました。
正確には、大川さんは自分の真意(これまでの宗教といかに異なる手法をとるべきか、という考え)を
幹部が理解できるように無言で待っている、とすらわたしは信じていました。
その信仰があったから、わたしは入会直後からすぐに教団批判をはじめたものの、
すぐに結論を出して退会したりはせず、その後3年間も会に所属を続けました。
批判が届かない以上は、自分が幹部のトップになるための実績を残して、
無事に幹部のトップになったら、直接自ら鉈をふるうしかない、と思ったのです。
もちろん、組織自体はすでにイエスマンのみの集団となっていたとわたしは認識したから、
トップに登りつめる過程では、イエスマンを演じなければならない覚悟もしていました。
踊る大捜査線ではありませんが、「正しいことをしたければ、偉くなれ」です。
そして、わたしは当時高校生でしたから、いまは勉学に励まなくてはなるまいと思い、
批判論文を送るに留まり、いずれは教団中枢にいき、改革をしてやろうと思っていました。

そして、その途上で、「疑ってはならない」の言葉で押し込めてきた、
「大川さんだけは間違っていない」という信仰が、事実の正確な分析に揺らぎはじめ、
結局すべての責任が大川さんにあるのだ、ということに気付いたとき、わたしは、
「実績があろうが、正論であろうが、会は変わらない」と結論し、退会したのです。
(これは Thoth_Hermes_Project さんのメッセージ6022に対する返信です)


6030件目   基準   投稿者:ELRANTY   2001年9月20日 午後 6時29分

>私は色々な角度から考えます。
(中略)
>この経験だけで十分信仰に値します。

わたしにとっては、あなたが挙げた、そのプロセスは基準としては弱すぎるのです。
なぜ、あそこまで問題を抱えた創価学会が、あのような巨大教団でいられ続け、
世界各国にも数多くの信徒たちがいて、幸せを感じているかわかりますか。
よほどひどい教えでない限りは、教えを実践すれば間違いなく幸福感は感じるのです。
幸福の科学も同様です。諸宗教のエッセンス(正確とはいいがたいが)や自己啓発本、
心理学もどき?が混ぜこぜになった教えは、実践する人に幸福感を与えるに十分です。

教えを実践して幸せになるのは、第一条件です。その上が必要なのです。
このひとは間違いなく諸宗教・諸学問を統合できる、と信じられるためには、
もっと強力な、わかりやすい、明確な基準が必要なのです。
それが「他の宗教とは決定的に異なる手法をとる」ということです。
なぜなら一般のひとは、中に入って実践しなければならないような事柄を基準にはせず、
もっと外からみてわかりやすいものを判断基準にするからです。
オウムと激論した『朝まで生テレビ』において、田原総一郎がこういいました。

「幸福の科学だったら、もっと違うやり方をやるだろうと、期待していたんだけどね」
「いや、やり方はいっしょなんですよ。教えをみてください」(幸福の科学側)
「いやいや、ホンモノだったらね、違う手法をとると思いますよ。
 というのはね、結局ひとは外に出てくるものを見て判断するんですよ」

まったく、その通りだと思います。
宗教間の争いを止め、統合することが目的で出てきているというのだから、
これまでの手法ではうまくいかない、ということはあまりにも明らかなのです。
御聖誕祭で、階段から下りてくる大川さんを見たとき、わたしは大いに期待していました。
教祖を崇める旧態依然とした幹部の心をマスコミの前で嗜めると思ったのです。
「わたしは崇拝は求めません。外に神を求める時代は終わりを告げるのです。
 わたしを見るのではなく、わたしが見るほうを見てください」と。
しかし、実際の演説は、旧態依然の駄目押しでした。
「今日は、わたしの35回目の生誕を祝してくれて、嬉しく思う」
「我は、エル・カンターレである!」
大川さんの先見性のなさ、認識力の低さが露呈した瞬間だったとわたしは思います。

あなたがたが幸せなのは、わたしは微塵も疑いません。
しかし、このやり方では、せいぜいが数万人の人間を幸福にする程度で終わる、
というのが、わたしの見解です。世界を変えるにはもっと決定的な違いが必要なのです。
(これは ELRANTY さんのメッセージ6029に対する返信です)


6031件目   最後に。   投稿者:ELRANTY   2001年9月20日 午後 6時30分

>信じられない理由は自我に基づいていませんか。

自我に基づかない理由とは、どのようなものでしょうか。
自らフライデーへの攻撃を指示しながら、マスコミへの取材に対しては、
「教団側はなにも指示していません。有志が行いました」と嘘をつく大川さん。
それをみて、「このひとはどうも仏陀としては信じられないな」と判断する。
これは自我に基づいていますか、いませんか。


>反省をしていないということを何によって判断されるのでしょう。

教団が変わっていないというのは、共通する認識としてあるでしょう。
あなたは現状が間違っていないと思っているから、反省の必要もないし、
このまま変わらなくても発展する、と判断しておられると思います。
わたしは現状を間違っていると思っているから、反省の必要があるし、
それが変わらないということは反省をしていないということであり、
反省がない限りは発展もない、と判断しています。
平行線だから、これ以上はやめておきましょう。言葉も汚くなりますから。
ちなみに、このままでも、創価学会程度の規模まではのびる可能性は否定しませんが、
幸福の科学の本来の目的とは、諸宗教の統合であり、それが本当の「発展」であり、
それは実現不能だろう、というのがわたしの「発展はない」という発言の意味です。
(これは ELRANTY さんのメッセージ6030に対する返信です)


6032件目   宗教の時代の終焉   投稿者:ELRANTY   2001年9月20日 午後 6時38分

教団運営批判はこのあたりにして、
宗教では争いは止められない、というわたしの意見をふたたび披露します。

gamandesuneさんとのやりとりは、もともと彼が、
「他の宗教の教えの未熟なところを指摘することで、
宗教同士の争いをやめて、宗教を統合する」と言ったところからはじまりました。
そして、「信じるしかない世界について、“指摘”なんていうことはありえない」
というのが、わたしの側の反論です。もう少し詳しく述べましょう。

イスラム教は、かなり包容力のある教えだということはさすがにご存知でしょう。
マホメッドは自らを「最後の預言者」として位置付けているそうですが、
キリスト教とは異なり、自らを神の子とはせずに、人間の子であるとしています。
そしてイエスを神の子ではないとしつつも、一預言者として存在を認めています。
経典としてはコーランがあり、キリスト教における福音書などの価値も認めています。

このイスラムの考え方は、幸福の科学ととてもよく似ているといえます。
歴史上の宗教家を、使命をおびて地上に降りた高級霊のひとりとして肯定的にとらえ、
またそれぞれが残した教えは、それなりに価値 ェあるものだとしている。

ところが、イスラム教はキリスト教の統合をするまでには至りませんでした。
当然といえば当然です。イエスが神の一人子であるということを信じるのは、
キリスト教においてもっとも重要な事柄であり、それがなければキリスト教は成り立ちません。
本当はそれがなくてもイエスの教えはとてつもない価値があるのですが、とにかく、
「イエスによってのみ、罪を赦され、救われることができる」という思想は、
キリスト教の根幹をなすものとして、譲れないものなのです。

それゆえ、クリスチャンにとってみれば、イエスが「一預言者」に過ぎない、
という解釈は侮辱以外のなにものでもなく、到底受け入れがたいものなのです。
マホメッドはみずからをも「一預言者に過ぎない」とし、神のもとの平等を説いているのに、
それでもクリスチャンは、気に入らないのです。イエスの格が落とされるのが。

まして、幸福の科学のように、大川さんが「一預言者」という小さな存在ではなく、
イエスを帰依させ、ヤハウェ(アラー)を謹慎処分に課せる力を有する、親神である、
という思想は、キ 潟Xト教はもちろんのこと、イスラム教にも拒否されるでしょう。
(これは ELRANTY さんのメッセージ6028に対する返信です)


6033件目   宗教の時代の終焉2   投稿者:ELRANTY   2001年9月20日 午後 6時58分

こうして見てくると、仏教の特異性が際立って見えてきます。
釈尊が「信仰を捨てよ」と説き、形而上学的事柄について沈黙し(無記)、
筏の喩えをもって、ひとつの教えに執着しないことを説いた仏教は、
宗教としてはかなり異質で、宗教とはいえないというひともいるくらいです。
(厳密には「原始仏教が」ということであり、たとえば日本仏教は明らかに宗教)

いずれにせよ、信仰を捨て、物事をあるがままに観察する修行によってのみ、
ひとは争いを避け、平和を築いていくことができるのではないかと思います。

しかし、どうやら信仰を捨てるというのはことのほか難しいことのようです。
その理由とは、これまで述べてきたように、あることを信じることが、
そのひとの幸せと密接につながっているからなのでしょう。

しかし、信仰を捨てることができなくても、
「幸せになるから信じている」という自覚さえできたら、
「未熟なところを指摘する」などという傲慢もなくなり、
少しは争いも避けられるでしょう。

信仰とはなんなのか、もう一度問い直さなければなりませんね。
(これは ELRANTY さんのメッセージ6032に対する返信です)


6037件目   自覚   投稿者:ELRANTY   2001年9月20日 午後 9時41分

>断定するのはいけないと言い切っているのです。つまり断定しているのですよ。

読解力の欠如もここに極まれりですね。
「すべからく断定は避けるべきである」とどこでわたしが書きましたか?
「証明されていない世界に対する断定は避けるべきである」と書いたのです。
文脈を読めば、これまでわたしによって語られてきた「避けるべき断定」とは、
事実の真偽について行うものを指すのだということくらい、わかるでしょう。


>自分と同じでなければ慌てているように
>書いているのが貴方ですね。

自分が基準ではありません。科学が基準です。科学でまだ証明されていないというのに、
なにを慌てて断定しようとしているんですか、と問うているのです。
断定を急ぐことをわたしが問題視している理由が、まだわからないのですか?
知りえない世界について、ある人間が自身の持つ信仰に基づいて断定をすれば、
異なる信仰を持つ者(彼は、知りえない世界について異なる断定をする)とのあいだに、
必ず争いが生まれるからです。証明のできる世界に関する争いは絶対に起きません。
「このペンは赤い」「いや青い」なんていうのはありえないのです。
ところが証明できない世界については、「イエスは神の一人子だ」「いや、一預言者だ」
という争いが生まれます。だから、断定を急がず、科学が解明するのを待ち、
それまでは「信じているに過ぎない」という自覚を持ち続けよ、と言っているのです。


>信仰、そして信じる行為をする人に対して貴方は脳や科学を持ち出して否定的に発言をしてきました。

「信じる」のは自由です。「信じているに過ぎない」という自覚がある限り。
「信じているに過ぎない」という自覚を忘れ、「知っているのだ」と勘違いしたとき、
「教義の未熟な点を指摘しあう」という、ドグマの争いがスタートするのです。
イスラムとキリストの争いについて述べた、「宗教の時代の終焉」をお読みいただき、
「教義の未熟な点を指摘する」という方法論の無力さを悟ることです。
(これは gamandesune さんのメッセージ6034に対する返信です)


6038件目   専門学校のすすめ   投稿者:ELRANTY   2001年9月20日 午後 9時42分

なぜ、こんなに多くのひとから「読解力がない」「論点がわかっていない」と言われるのか、
よくよく自らを振り返ることです。以前にもどこかで言われていましたが、
どこか専門学校にでも入って、文章読解と小論文作成のクラスでも受講してみてください。
ずっと自分が同じことを言われてきたのが、単なる誹謗・中傷ではなく、
根拠のあることだったのだ、ということがきっとおわかりになるはずです。
(これは gamandesune さんのメッセージ6034に対する返信です)


6056件目   Re:やっとおわった   投稿者:ELRANTY   2001年9月21日 午前11時49分

質問形式のものだけ、答えさせていただきます。

>貴方の心なのでわかりませんが、自己保存での判断のようですな。
>まずは心の曇りを取りましょうね。
>貴方の中の仏陀ならどう答えるんですか。

それは、いまさら聞くまでもないでしょう。
しかし、嘘をついた人間を「仏陀ではない」と判断することが「自己保存」とは、
どういう勉強をしていらっしゃるのでしょうか。これはかなりの驚きです。


>そのコメントははじめて聞きました。

あなたがいつ入会された方か存じ上げませんが、91年の段階で会員であったならば、
大川さんがそのようにマスコミに向けてお話しになったことはご存知のはずです。
これを受けて、ジャーナリストの江川紹子さんがどこかの週刊誌で、
「大川隆法さん、なぜあなたは嘘をつくのか」というレポートを書いたではないですか。
あなたは知っていて「初耳だ」と言っているのでしょうか。会のイメージダウンを避けるために。
そういうことをすれば、わたしがます ワす会に不信を抱くことくらいおわかりでしょう。


なぜ反省ひとつできないのか。
なぜ自ら信念をもってやったはずのことを「やりました」と言えないのか。
たとえ指示していないとしても、有志が講談社に迷惑をかけたことに対して、
「教育不足で、うちの弟子が、失礼をしました」の一言がなぜ言えないのか。
あまつさえ「うちの弟子は多いから、ああいうことになりますよ」と平然と語っていられるのはなぜなのか。
心を澄まして己の真我に語りかければ、このような人物が仏陀でないことは明らかです。
そして、彼に追随するひとたちが、自らのいまの幸福を喪失するのが恐ろしくて、
真我に問いかけるどころか、目をそむけてきたことも。


おつきあいいただき、ありがとうございました。
(これは Thoth_Hermes_Project さんのメッセージ6050に対する返信です)


6057件目   お願い   投稿者:ELRANTY   2001年9月21日 午前11時51分

わたしの投稿に返信をする義務はあなたにはありませんが、
せっかくお返事をいただけるのでしたら、具体的にお願いします。

わたしは自分なりに考えて、二元論が生み出す問題を語っています。
わたしの認識は正しいと思うのか、あるいは二元論の長所とはなんなのか。
逆に一元論はどのような問題を生み出す可能性があると考えているのか。
「一元論、二元論ともに長所・短所がある」だけでは、まったくわかりません。


>対立ばかりに目を向けているあなた自身がいますね。

対立にばかり目を向けているというのは、
わたしが宗教の持つ長所についてほとんど語らないからでしょうが、
わたしはここで「宗教とはなにか」という壮大なテーマで語っているのではありません。
「宗教が争いをやめられないのはなぜか」という限定的テーマで語っているのです。
宗教が持つ素晴らしい面については、おそらくあなたとは認識が共通しているでしょう。
ところが、宗教がどのような問題を生み出すのかということに関する認識があなたがたには欠けています。
ですから、わたしはそういう限定的テーマで語ろうとしているのです。
(これは Redwood_Tree_M さんのメッセージ6041に対する返信です)


6058件目   はじめまして。   投稿者:ELRANTY   2001年9月21日 午後12時08分

退会者のELRANTYと申します。こんにちは。
掲示板になにを期待していらっしゃるのかわかりませんが、
幸福の科学の教えのどこがどう素晴らしいかは、本を読んで発見していくことだとわたしは思います。
大事なことは、そこに所属するひとたちがどういうひとたちか、ということです。
彼らは普段はまったく素晴らしいひとたちだとわたしは信じています。
しかし、批判されたときにどのような対応をするか、そこにその宗教の本質が顕れるのです。
見事なサンプルたる、この掲示板をいまのまま観察し続けることをおすすめします。

幸福の科学について、歴史も含めて客観的に知りたければ、
『宗教と科学のネオパラダイム』(創元社/沼田健哉)という書籍に会の研究があるので、
お読みになってはいかがかと思います。冷静かつ中立的で読みやすいでしょう。
批判的観点からのものも研究しておきたいのであれば、
『虚業教団』(現代書林/関谷皓元)という書籍をお読みになればいいと思います。
それに対する会の反論は、幸福の科学の月刊誌のバックナンバーにありますし、
(お近くの支部で買うことができるかもしれません)
『現代のユダを斬る』というような書籍もあったかもしれません(このあたりは記憶が確かではありません)。
(これは morikawa_45 さんのメッセージ6053に対する返信です)


6063件目   本当に最後。   投稿者:ELRANTY   2001年9月21日 午後 7時34分

もう一度下を読んで、わたしは「すべからく断定はいけないことだ」
とは、言っていないことを知ることです。

>読解力の欠如もここに極まれりですね。
>「すべからく断定は避けるべきである」とどこでわたしが書きましたか?
>「証明されていない世界に対する断定は避けるべきである」と書いたのです。

次に、「信じているに過ぎない」という自覚をすることの大事さについて。

>知りえない世界について、ある人間が自身の持つ信仰に基づいて断定をすれば、
>異なる信仰を持つ者(彼は、知りえない世界について異なる断定をする)とのあいだに、
>必ず争いが生まれるからです。証明のできる世界に関する争いは絶対に起きません。
>「このペンは赤い」「いや青い」なんていうのはありえないのです。
>ところが証明できない世界については、「イエスは神の一人子だ」「いや、一預言者だ」
>という争いが生まれます。

だから、知っていると思い込むのはやめるべきだ、と言っているのです。
しかし、どうやらあなたはこんな単純なことすらも理解できないようだから、
これからも宗教同士の争いの主役となっていくでしょう。

あなたはベテランだから、
忌憚なく意見を述べてくれる会員仲間などいないでしょうけれども、
Nishida77さんと連絡がとれるようだったら、
彼にわたしの言っていることを問うてみてください。
彼はかつては「信じているに過ぎない」という自覚ができておらず、
あちこちのクリスチャン系トピックで顰蹙を買っていましたが、
「知っている」と思い込んで主張をすることは盲信であり、争いの原因だと気付き、
いまでは、修正をかけていますよ。
彼に倣ったほうがよいでしょう。

あなたと話していると、わたしの言っていることをかみくだいて説明してあげることに、
時間の大半を費やさなくてはならなくなるので、
あなたとの対話はこれっきりにしておきます。

ありがとうございました。
(これは gamandesune さんのメッセージ6062に対する返信です)


6077件目   お返事1   投稿者:ELRANTY   2001年9月21日 午後11時54分

>イメージダウンを狙っていたのですね。意図的に。

そういうことにはなりません。事実はひとつです。
指示を出していたとすれば、わたしは事実の主張をしただけということになります。
あなたは逆に、イメージダウンを避ける目的で嘘をついたことになります。
指示を出していなかったとすれば、あなたは事実の主張をしただけということになります。
わたしは逆に、イメージダウンの目的で、嘘をついたということになります。

したがって、事実がどうなのか、ということだけが重要です。


>貴方が誹謗中傷をしていない証として、総裁が指示を出したという証拠を記述してください。

誹謗・中傷だと判断されても、わたしはいっこうにかまいません。
ROM者は、(幸福の科学に限らず、宗教の)退会者が嘘をついて教団を批判する、
などという構図が非現実的であることくらいは、わかるでしょう。

ちなみに、大川さんが指示を出した、というのはわたしの経験からの主張です。
あなたはいつからの会員であるかを教えてくださりませんが(義務はありません)、
あのときに会員であったならば、支部に呼び出されて、
大川さんが幹部に語ったビデオを見せられたはずです。
天狗の団扇のようなものを持って(これは諸葛孔明をどうやら意味するようでした)、
「信次先生も怒っています。イエス様も怒っています。悪と断固闘えと天上界から指令がくだりました」
というような内容のことを語られました。
そのビデオはわたしの所有物でもなんでもないから、証拠として提出することはできません。

記憶では、有田芳生さんの『幸福の科学を科学する』において、
フライデー事件に関する、数多くの会員・元会員の、
「教団側から指示があった」という主張が示されていた、と記憶します。

大川さんがフライデーの指示を出したことも書かれている『虚業教団』は、
幸福の科学側が誹謗・中傷だと訴えましたが、証拠を多数提出されて、
本に書かれていることが事実だと認定され、幸福の科学側の訴えは退けられました。

これらは、指示を出したことを示す、間接的なひとつの証拠と言えるでしょう。
(これは Thoth_Hermes_Project さんのメッセージ6068に対する返信です)


6085件目   驚きました。   投稿者:ELRANTY   2001年9月22日 午後10時13分

あなたの意見は、「先生が指示を出したという証拠を出せ」というのではなく、
「先生が“自分は指示を出していない”と言った、という証拠を出せ」というものであり、
「それがなければ、先生は指示を出したことを否定していないということになるのだから、
嘘をついたということにもならないではないか」ということでしょうか。

あなたは当然教団のコメントを事実として認めておられると思っていました。あるいは、
あなたは「広報はそう言ったが、先生自身がそう言ったというわけではない」、
と仰りたいのでしょうか。わたしも「先生だけは別」と信じ込んでいた人間ですから、
あなたが現在もそのような心境であったとしても不思議はありませんが、
しかし、そのような考えは、まず一般に受け入れられるものではありません。
「広報がそう言った」ということは「大川さんがそう言っている」と考えるのが、
一般社会の常識です。多くの信徒を抱える組織の代表なのだから、
広報から発せられる情報に対して責任を持てないのだったら、
代表たる資格はないといわざるを得ない、とわたしは思います。

ちなみに、もともとわたしは「広報が言った」ということを根拠に、
「大川さんが言った」と述べてきたわけではありません。
なんらかのメディアに対して、大川さん自身が実際にそのように述べた、
という記憶があったので、「大川さんが言った」というように主張してきました。
ただ、サンデープロジェクトのことはまったく意識の外にありました。
あなたに言われて、「ああ、そういうのにも出たな」と思い出したくらいです。
わたしの記憶では雑誌メディアだったような気がしていますが、定かではありません。
「会から指示があったことは言わないでください」と言われていましたから、
あらゆるところで、「関与していません」という教団のコメントが流れたと思います。

ところで、フライデーが、大川さんに関する捏造記事を流したからといって、
当時の雑誌はすべて信用ならないものだ、とするのは、かなり無理があります。
そこにはなんの根拠もなく、「教団を批判する者には悪意がある」という邪見です。


長くなりましたが、
もし、「先生は“教団は関与していません”とは言っていない」と仰るならば、
あなたはわたしに証拠を求める前に、まず御自身で広報に問い合わせてみてください。
「先生および教団が抗議の指示を出した」というのが公式見解なのか、
「先生および教団は抗議の指示には一切関与していない」というのが公式見解なのか。

「教団(先生)が抗議の指示を出した」というのがずっと公式見解だったとすれば、
「嘘をついた」というわたしの主張は取り消します。ただ、それはありえないでしょう。
「会から指示があったことは言わない」というのが、抗議行動の“肝”だったのですから。
(これは Thoth_Hermes_Project ウんのメッセージ6081に対する返信です)


6086件目   ふたたび驚きました。   投稿者:ELRANTY   2001年9月22日 午後10時24分

裁判の記録を読む限り、

>同原告が自ら平成三年九月五日及び六日の同被告本社前を通過するデモ行進を組織し、
>その参加を各会員に呼びかけたこと(争いがない)、

「争いがない」となっています。つまり教団は、
自分たちが組織的に抗議行動を呼びかけたことについては認めた、ということです。
しかし、これは多くの会員さんがまだ知らないことなのではないでしょうか。
これまで、過去ログを読んできた限りでは、「指示があった」というこちらの主張に対し、
「自主的にやったのです」というかたちで反論をしてこられたと思います。
これは「会から指示があったことは言わない」という指令に基づいたものだと思います。
これは結審ですから、裁判の当初からそのような形でやってきたというよりは、
裁判の過程で「この部分はバレているから争ってもしかたない」と判断したのでしょう。
そのあ スりを詳しく月刊誌(もしくは別冊など)で報告してこなかったから、
会員たちの足並みが揃っていない様子がうかがえます。このような状況では、
当時大川さん・教団側がどのようにコメントしていたかはわからないし、
むしろ当初は「関与していません」と語っていた蓋然性が高いと思われます。

『幸福の科学を科学する』という書籍があります。
確か有田芳生さんの著作だった気がします。
以前にどなたかが引用に使っていたでしょうか。
その本は、フライデーの件に詳しいと思われます。
もしかしたら、その本に当時の教団のコメントが載っているかもしれません。
(これは issen_dai さんのメッセージ6084に対する返信です)


6087件目   お返事2(信仰について)   投稿者:ELRANTY   2001年9月22日 午後10時55分

>自分の信じている世界から離れるには、それなりの動機が必要でしょう。
>通常は不安、恐怖などから派生するはずです。
>これは信仰心が揺らいでいるときの、私の精神の考察から導かれたものです。

あなたがここで、どういうことを仰っておられるのか、理解できていないですが、
たとえば「仕事がうまくいかない」とか「病が治らない」とか、
そういう不安や恐怖は、信仰心を揺るがせる原因の最たるものである・・・、
というようなことを仰りたいのでしょうか。もしそうであれば、
裏を返せば、そういうひとの信仰心は、仕事がうまくいったり、健康でいられたり、
というようなことに対する「感謝」を基盤にしていると言えます。
「感謝」を信仰の基盤にしていれば、「感謝」が困難になる現実が顕れたときが、
「信仰の揺らぐとき」となるであろうことは、容易に想像がつきます。
あなたの投稿に「仏に生かされている」という言葉が出てくるのを見ると、
あなたの信仰心のベースも、まさにそこ(感謝)にあるのではないかと思われます。
それ自体は悪いこととはまったく言えませんけれども、そういうベースでは、
信仰心がしょっちゅう揺らぐことになってしまうことでしょう。
(これは Thoth_Hermes_Project さんのメッセージ6068に対する返信です)


6088件目   お返事3(信仰について)   投稿者:ELRANTY   2001年9月22日 午後10時57分

わたしにとっての「信仰」は、そのようなベースに乗っかっているのではありません。
わたしは基本的にあらゆることが、人間の責任のもとにあると思っています。
大川さんがわたしについてあれこれ関与する存在だとは思ったことはありません。
大川さんが「仏」とか言われて、感謝の対象のようになっていったのは、
比較的最近のことではないでしょうか。勉強不足であればそれはそれでいいのですが、
ともかくわたしは「感謝」する対象である「神」は、根源の神であって、
地上に降りた仏陀はあくまで「帰依」の対象であり、
それは「先生の指導に従います」というものだったと思っていました。
もちろん、指導をしてもらっていることに対する感謝というのはあるでしょうが、
たとえば今日一日がなにもなく無事に終わったこと、健康でいられること、
なにか目標を達成できたことなどを、大川さんに感謝することはありませんでした。
ですから逆に、健康を損なったりしたことや、目標が達成できなかったことなどで、
大川さんを恨んだり疑ったりすることも、まったくありませんでした。
このように、自らをとりまく環境の浮き沈みが信仰心を揺るがせる原因となることは、
わたしにとっては、まったくありえないことだったのです。ですから、

>不安にかられている場合は冷静な判断は出来ず、波長は下がります。

これは一般論としては、まったくその通りだと思いますが、
わたしが信仰を捨てた原因は、自我の不安や恐怖とはまったく無縁だったのです。

わたしにとっての「信仰」とは、「自らの内側に神がいることを信じる」
というものであって、師は生神ではなく、導き手だというのがわたしの信じるところです。

「わたしの言葉であっても疑いなさい。なにが正しいかはあなたがたの心が知っている」

高橋信次さんのこの言葉が、わたしの「信仰」の強烈なベースとなっていました。
それゆえいまの「生神信仰」のようなものとは、わたしはまったく無縁だったのです。
このように「信仰」というものに対する考え方やそのベースが根本的に異なるから、
あなたはわたしの「嘘をつくひとは仏陀ではない」という判断を、
「信仰を捨てた本当の理由ではない」「後付の理由だ」と考えてしまうのでしょうが、
それが本当にわたしが信仰を捨てた理由なのです。「嘘」だけではありませんが、
総合的に判断して、「真我を発掘する道をこのひとでは示せまい」と結論しました。
それが本当に真我に問うた結果だったのかどうかは、誰にもわかりません。
しかし、「先生にはきっとお考えが・・・」と無理やり思い込もうとしていた頃よりも、
「このひとは違う」と言えたときのほうが、自分に正直になれた気がしたのは確かです。
(これは ELRANTY さんのメッセージ6087に対する返信です)


6101件目   師の責任(最後)   投稿者:ELRANTY   2001年9月23日 午後 1時56分

>総裁が嘘をついていたかどうかがこの場合一番重要な論点であり、私はそうは言われていないと信じているのです。
>そういった意味では私にとっては総裁と教団は別です。
>世間常識的議論ならば、はいそうですかと答えるしかありません。

了解しました。あなたは「先生だけは・・・」という考えかたを採用されるようです。
かつてのわたしがそうでしたから、ひとつの信仰のかたちとして、十分理解しました。
大川さんが組織のことにどれだけ責任を負うべきかということに関する考え方の相違、
ということで、この議論は決着ということでよろしいでしょうか。

おつきあいいただき、ありがとうございました。
(これは Thoth_Hermes_Project さんのメッセージ6090に対する返信です)


6102件目   真我と自我(最後)   投稿者:ELRANTY   2001年9月23日 午後 1時58分

>現在の自己意識の成り立ちについてはどれだけ疑問を持たれましたか。
>善悪の観念についても両親や近しい人の観念を無条件に受け入れてしまっているのが通常なのです。
>本当の自分というものは簡単には見つからないと思っています。
>これは心の中のダイヤモンドであると結論が出るまでは、軽率な行動は控えるべきでしょう。
>私が結論が早すぎるという失礼とも取れる発言をするのはそういう観点からです。

あなたの主張を スいへんよく理解できました。
このあたりの心の働きについては、言葉で表現するのは難しいし、
がんばって表現してみたところで、所詮は心のなかの問題ですから、
無益な争いとなってしまう可能性が大きいので控えます。あなたもきっと、
「それはあなたの自我です」とか「それはダイヤモンドではありません」とか
断言することはできないだろうし、断言したくもないでしょう。
いちおうわたしとしては一生懸命考えてみた結果だ、ということだけ了解ください。

醜いいざこざがありましたが、
あなたと対話できたことは本当によかった、と思えるようになりました。
もともと幸福の科学のことは、わたしのなかで過去のものとなっていました。
わたしにとって不要でも、それを必要としているひとたちがいると理解していて、
幸福の科学を一宗教団体として存在意義を認めることもできていました。
ゆえに躍起になって批判するほどの関心も本当のところなかったのですが、
現役会員たちのおかしな主張をみるたびにむかしの記憶が蘇り、
「なにを言っているんだ」と言いたくなって出てきてしまいました。
しかし、あなたのような ミとがいると知ることができて、
わたしにとって不要でも、それを必要としているひとたちがいるという理解を
ふたたび取り戻し、本当に幸福の科学批判を卒業できそうな気がしています。
ありがとうございました。
(これは Thoth_Hermes_Project さんのメッセージ6094に対する返信です)


6103件目   休憩宣言   投稿者:ELRANTY   2001年9月23日 午後 2時01分

最後ですが、わたしがいま持っている考えの一端を披露します。

>仏に帰依しているのか、利用しているのか

対立することのように主張されていますが、
現在のわたしにとって、このふたつは対立することがらではありません。
わたしにとって「帰依」とは、「あなたを利用します」という宣言なのです。
創造についてですが、『太陽の法』には、
高次の意識から順々に創られていったというような描かれ方をしています。
わたしはもともとそこがかなり大きな疑問でした。どのレベルの意識して誕生するか、
わたしには選択はできなかったのだろうか、という疑問があったのです。
なぜ自分はもっと高次な意識として誕生できなかったのだろうか・・・、と。
そのとき思いました。この世に誕生するとき、自分で選択して生まれてくるように、
魂の誕生のときも、自ら意識のレベルを選択して生まれてきたのではないか、と。
神が遍在だとすれば、神以外のものがこの宇宙に存在する余地はないのであって、
いま自分がここに存在しているということは、自分は創造の前から存在していたことになる。
わたしは創造された側ではなく、創造の瞬間からそこにいた神自身であり、
宇宙の創造とは、唯一無二の統合された状態であった神(わたし自身)が、
「この統合された状態を忘れたらどうなるんだろう?」と疑問を感じてはじめた、
「統合された状態を忘れ、ふたたび統合された状態に戻る」というゲームであって、
その瞬間に、唯一無二の意識は分裂をはじめ、個々の意識へと別れていったのだ。
その分裂のとき「神である状態をどこまで忘却するか」ということ(意識レベル)を、
自分で決めたのだ、と思うようになったのです。そして聖者も悪魔も凡人も、
自ら忘却の度合いを決めたのであり、それは自分自身の姿にほかならないと思ったのです。
それゆえ、悟っていないひとはもとより、悟っているひとであっても、
わたしがふたたび自らを唯一無二の普遍的存在(神)であることを思い出すための、
「道具」として存在している、とわたしは考えるようになったのです。

宇宙は収縮と拡大を繰り返すとどこかで聞きましたが、実際、
意識はこんな分裂と統合の繰り返しをずっとやっていくのではないかと想像します。

そんな永遠の繰り返しを考えたとき、わたしは魂とかあの世というものに興味がなくなり、
「いま」「この場所」こそがわたしにとって永遠の「現在」であって、
「生きる」ということの素晴らしい価値に、わたしは気付くようになりました。

--------------------------------------------------------------------------

なんとか平静な気持ちに戻れましたので、しばしトピックからは離れます。
おつきあいいただきありがとうございました。
(これは ELRANTY さんのメッセージ6102に対する返信です)


6119件目   Redwood_Tree_Mさん   投稿者:ELRANTY   2001年9月24日 午前11時48分

かってに休憩宣言をしてしまって、失礼しました。
あなたとの対話の途中でした。これで最後です。

>幸福の科学では、一乗思想や光明思想に対して、一定の批判をしているのは、
>ご存知かと思っていました。

もちろん存じております。
わたしの意見に対してどう考えるのか、
という具体的な意見を語ってほしい、というお願いでした。

>一元論のみでは、悪や無明な事柄に目を背けてしまい、
>目を背けることによって大きな悪に発展してしまう場合があります。

幸福の科学の語る一元論がどういうものか、よく覚えていませんが、
「善のみ真理と悟るべし」という経があったような気がします。
これではあなたの仰るとおり、悪や無明に眼を背けることもあるかもしれません。
しかし、これはわたしの言っている一元論とは異なります。
一元論とは、「善も悪も神の性質である」というものです。
この思想がどういう方法論にいたるかは、もうすでに何回も書きました。
そして、この思想を採用しない二元論がどういう問題を抱えるかも書きました。
それに対して具体的にどうお考えになるか、ということがわたしの質問でした。

現役会員さんたちの反応を見ていると、このあたりはどうも難しいようです。
大川さん自身が一元論と二元論を詰め切れていない感もありますから、
このあたりで終了しましょうか。お相手していただきありがとうございました。
(これは Redwood_Tree_M さんのメッセージ6112に対する返信です)


6120件目   yukisan_kokodokoさん    投稿者:ELRANTY   2001年9月24日 午前11時50分

トピック削除には反対しません。
幸子さんのページ(../~sachiko/)もあることですし、
そちらに連絡をしてログをすべて取ってもらえれば、トピックが消えても情報だけは残り、
あなたの仰る“腹のさぐりあい”も新たに繰り返されることもなくなりますから。
(いつかはまた誰かがトピックを立ち上げるのではないかという気もしますが)
(これは yukisan_kokodoko さんのメッセージ6114に対する返信です)